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加藤典洋先生のいない2冊から”日本”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


本当のことを言ってはいけない (角川新書)

本当のことを言ってはいけない (角川新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: 新書

V 短絡的正義がもたらすもの


加藤典洋『戦後入門』を読む


元同僚の死


から抜粋


ご存知の方も多いと思うが、加藤典洋は2019年の5月16日に亡くなった。

亡くなる2ヶ月前に見舞いに行ったとき、根を詰めてcontroversial(論争の的になる)本(『9条入門』)を書いてストレスが溜まったのが、病気の原因だと思うと言い、これからは池田清彦みたいに軽く生きるつもりだ、と笑っていた。


退院したら、志木(しぎ・加藤さんの住んでいるところ)の家に、俺の持っている一番いい酒を持って遊びに行くよ、と言って、握手をして別れたのが最後になってしまった。

加藤典洋と握手をしたのは後にも先にもこの時だけだ。

握手なんかするもんじゃねえな。


戦後日本の非常に奇妙な状況


から抜粋


B29による大規模な空襲も非人道的な虐殺であることに違いはないが、とりあえずこれは措(お)くとして、戦争末期、このままでも日本の敗戦は時間の問題であった時期に、広島と長崎への原爆投下は、勝敗に関係のない無意味な虐殺であったにもかかわらず、日本政府は原爆投下直後こそ、原爆投下は国際法違反だとの抗議声明を出したが、GHQに占領されて以来、公的な抗議をしておらず、アメリカもまたほおかぶりをして、公的な謝罪をしていない。


不思議なことに被爆者も一般国民もまた、アメリカへの怒りを口にすることはほとんどなく、52年に広島市の平和公園に作られた原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているだけである。


あいまいな言葉で責任をうやむやにするのは、日本人の得意技とはいえ、原爆投下に関する限り、過ったのはアメリカに決まっているのにね。


3・11の原発事故もそうであったが、余りにも大規模な人為的な被災に対して、日本人は怒りを感じない民族なのかもしれないと思いたくもなる。


戦争に負けた日本人のほとんどは、なぜアメリカへの報復の炎を滾(たぎ)らせることがないのだろうか。


一つの答えは、長く続いた15年戦争の結果、多くの日本人は戦争疲れで疲弊しており、戦争が終わって内心ほっとしていたので、今更アメリカの原爆投下を非難しても始まらないという思いがあったのではないか。

これは加藤も指摘している。

それに、私見を付け加えれば、この戦争は元はと言えば、日本が仕掛けたものだという幾分後ろめたい気持ちもあったに違いない。


しかし、加藤の見立てでは、もっと大きな原因は、ある大きな力の下で、批判が封じ込まれたのではないかというものだ。

加藤の論点を私なりにざっくり言うと、日本の降伏は本当は無条件降伏ではなかったにもかかわらず、アメリカは原爆投下とセットで一切の文句を言わせない無条件降伏と言いなして、占領中は原爆の投下を含めて、アメリカへのあらゆる批判を封じ込めた。


日本が形式的な独立を遂げた後も、日米安保条約とそれに付随した日米地位協定により、実質的に日本を属国の地位に留めるとともに、経済的な成長を助けて、日本の不満が噴出しないように腐心した。

この辺りの事情を説明するために加藤が提出した仮説は「戦後型の顕教・密教システム」で、この仮説は見事に日本の戦後の状況を言い当てていて、『戦後入門』の白眉(はくび)である。


加藤によれば、戦後型の顕教とは、日本と米国はよきパートナーで、日本は無条件降伏によって戦前とは違う価値観の上に立ち、しかも憲法9条によって平和主義の上に立脚しているとみる解釈、密教とは、日本は米国の従属化にあり、戦前と戦後はつながっており、しかも憲法9条のもと自衛隊と米軍基地を存置しているとみる解釈を意味する。


具体的には、国民全体に対しては、日本は平和主義の独立国家であるとの認識をゆきわたらせ、権力が国政を運用する秘訣としては、対米従属の下、戦前と戦後は繋がっているという政治的感覚はとりあえずカッコに入れて、自衛隊と米軍基地によって軍事的負担を減らして、もっぱら経済大国化を目指すという、ダブルスタンダードシステムこそが、日本の戦後を支えてきたというわけだ。


アメリカの属国から抜け出す方法


から抜粋


このシステムのおかげで、日本は経済大国になることができ、多くの国民は、日本がアメリカの属国であるという事実を忘れて、経済的繁栄を謳歌することにより、民族的自尊心を満足させた、というのが20世紀の終わり頃までの日本の状況であった。

しかし、ここに来て、このシステムを支えていた日本経済の繁栄は音を立てて瓦解してきた。


加藤典洋の見立てのように、化けの皮の剥がれた安倍政権(20年当時)が続くと、日本会議の路線に沿って、対米独立を果たし、軍事大国の道を目指して世界の孤児になるか、あるいは徹底的にアメリカに従属して奴隷国家の道を選ぶかの選択をいずれ迫られることになるだろう。

前者の道は経済的な疲弊をもたらし、後者の道では国民の自尊心は全く満たされない。

いずれにせよ国民が不幸になることに変わりはない。


そこで加藤典洋の提案は、憲法9条を改正して、自衛隊の一部を国土防衛と災害救助に当て、残りの全戦力を完全撤退しても、国際的には孤立しないはずであるし、日本人の自尊心も担保できると言うわけだ。

いかにも真面目な加藤典洋らしい提案だ。

現実的でないと言って冷笑を浴びせる人が恐らくいっぱいいるだろう。

しかし、革新的な提案は、どんなものでも最初は現実的ではないのだよ。


もしこの案が実現したら『戦後入門』は21世紀初頭の古典として、長く語り継がれるだろう。

人は死んでも本は残る。

さよなら、加藤さん。ごきげんよう。


池田先生が珍しくしんみりしているようで


それはあまりにも不似合いなのだけれども


本当に残念な思いが滲んでいるように感じた。


池田先生の言葉を信じるのならば


加藤先生は最後の書を生命を賭して


書かれたと言えるのだろう。



この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

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  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2021/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

第6章

『9条入門』


憲法と戦後史を改めて考える


高橋源一郎 X 鹿島茂


「考える」とはどういうことか


から抜粋


高橋▼

若い世代に憲法のことを伝えることを考えても、九条だけ注目していてはダメなんですよね。

僕は大学で教えていますが、若い人や子どもたちも九条のことを教えようとすると、すごく時間がかかって遠回りになるんですよ。

なぜかというと、これは大人たちも同じなんですが、みんな社会的に洗脳されているからです。

10年、20年、30年かけて、社会的に教えられる言葉や概念をそのまま内面化している。

それを解きほぐすのは容易じゃありません。


もちろん、いまのこの対談のように、単体のテーマとして説明に時間をかけることもできますが、それ以前に、「物事を考えるとはどういうことか」とか「人の意見を疑う」とか「なぜ嘘を吐いてはいけないか」とか、そういう話から始めなければいけない。

これは教育の問題なのですけれど、それを含めて、そんなに長いわけではない人生の中で、物を考えるのは大変だけど大切だし、しかも楽しいということを、いわば愚直に語っていく。

その延長上に九条があるんですよね。


目の前で九条を改悪する話をされれば「そんなバカなことがあるか」と焦りを感じたりもしますが、そこだけで焦っていたのでは、僕たちの足元が揺らいでしまう

だから、これには二面があるんです。

じっくり時間をかけて考えるという悠長なことをやると同時に、何か起こったらデモに行くとかね。

緊急性と永遠性の両方が必要なんですよ。

そういうスタンスで対処していくしかないですね。


日本人の多くが洗脳されているから


9条に短絡的にデリケートになっていると。


確かに「憲法改正」=「9条」=


「戦争を企む輩の思惑」みたいな


公式が暗黙にあるような気がする。


それはちと一旦置いといて気になるのが


洗脳とは具体的に何を指すのか。


洗脳されている自分にはわからないため


今後のテーマにしたいと存じます。


加藤典洋先生と高橋源一郎先生の対談


一度昔読んだのだけどその時はスルーだが


これで俄然興味が湧き出ずるものに。


対談相手を経由して戻る、と言うのは


自分にしてはよくある話なのだけれども


と言いつつも、テーマが非常に重たく、


しかし切実な国土防衛というか。


国の自衛のあり方、来し方とでもいうのか、


なのでちと二の足を踏みそうだけれども


鹿島先生の対談は高次レベルの学がないと


しんどいなあ、捻り方も相当なものだし


とも思ったりもする低い学の身分とは


あまり関係のないと思いたい


いつも以上に地震が心配な日曜出勤


なのでございました。


 


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