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①河合隼雄先生・養老先生の書から”中年”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


書物との対話

書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

”脳”を刺激する興味深い対話


養老孟司『脳という劇場』


これは実に刺戟的な対談集である。

『唯脳論』の養老孟司さんがいろんな多彩なタレントを「劇場」に登場させて対話している。

養老さんの柔軟な姿勢を反映して、いずれもそのトピックに合った興味深い視点を引き出していて、読みながら、こちらの「脳」も随分と刺戟される、というわけである。


冒頭の中村雄二郎との対話は、本書の総論と言ってもいいほどで、多くの新しい考えのヒントを与えてくれる。

中村の「形というモメントを入れることによって、あるいはさらに、それを重視することによって近代科学を超えることもできるはず」という考えは注目すべきである。


中村桂子との対話では、養老が学問というものは「既知のものを未知のもので説明する」と述べたことに中村が同感して、一般の人は科学というものを「未知のものを既知のもので説明する」と思っているので困る、と言っている。


多田富雄、大島清、などの対話と共に、「新しい自然科学観」をまさぐってゆこうとする姿勢が伺える。

ただ、素人には少し難解なところがあり解説が欲しいと思う。


免疫学の多田は「自己などという概念は崩壊しちゃった」と宣言している。

このことは心理学で考えている「自己」にまで及んできそうで、古井由吉との対話で問題とされる、「複数の自我」にまでつながってゆくと感じられた。


山根一眞との対話で養老は、頭の「良し悪し」よりも「強いか・弱いか」の方が重要だという注目すべき発言をしている。


哲学者、建築家、小説家、生命科学者、それに棋士、果ては「言いたい放題、死体放題」の南伸坊まで登場して、その幅の広さに感心するが、これら全て自家「ノウ中にあり」と唯脳論の養老先生は主張しているようである。

ーーーサンケイ新聞’90



中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1996/06/01
  • メディア: 文庫

巻末エッセイ


おとな


養老孟司


河合さんにお会いすると、いつでも「おとな」という印象を受ける。

私が「子ども」だということもあるだろうが、それだけではない。

この場合の「おとな」とは、『広辞苑』を例にとれば、

「中・近世、村落の代表者、また、実力者。乙名百姓。年寄。宿老。」といった感じである。

大げさにいえば、「日本のおとな」であろう。


いろいろ違いはあるけれども、河合さんの世代、さらに京都という土地が、こういう乙名百姓を出す培地(ばいち)なのかもしれない。

同時期に京都大学におられた数学の森毅さんも、別な乙名百姓である。

こちらもお会いするたびにそう思う。


関東という土地はどうもこういう人たちを出さない。

そういう感じがする。

その本質が重層的であるような文化というもの、それが関東にはいささか欠けているのである。

関東人はいくら金を持とうが、基本的に貧乏人の性癖を残しており、どことなく乱暴で直線的である。


関東の小説家というなら、私の頭にたちまち浮かぶのは、三島由紀夫、石原慎太郎、深沢七郎などであり、どう考えたって、これはどこか文化的ではない。


河合さんの逆の存在をいうなら、以前テレビ番組にあった『木枯し紋次郎』である。

どこが逆なのかというと、その説明はできない。

強いていえば、紋次郎は「あっしにはかかわりのねェことで」と言いつつ気持ちも身体も徹底的に関わることになり、河合さんは患者さんにいちおう仕事で関わりながら、腹の底ではむしろ「紋次郎」を演じるということであろう。

「紋次郎」は関東的で、要するに関東人は屈折したとしても、たかだかああなのである。

そこがアメリカ文化と平仄(ひょうそく)が合うところなのであろう。


考えてみれば、江戸という町の歴史は400年、おおかたのアメリカの町よりは古いかもしれないが、50歩100歩であろう。

京都は1000年、それなら関東はまだ「紋次郎」でいいわけである。


河合さんは本読みの達人である。

『書物と対話』という本もあって、読書がみごとな芸になっているのがわかる。


『中年クライシス』という本は、私はいつもの習慣で横須賀線の中ではじめて読んだ。

感心しながら引き込まれたから、そのときのことをよく記憶している。

山田太一氏の『異人たちの夏』の解説にあまりに感激したので、肝心の原作を読む気がなくなってしまった。

こういう見事な解説は、ある意味では良くない。

あらかじめ小説を読んだ人しか、読んではいけない解説なのである。

山田氏の小説が、解説ほどでなかったらどうしよう。

私はついそう思ってしまったのである。


これはものすごい目から鱗がフォールダウン。


養老先生の書評こそまさにこれ。


書評読んだらもういいです的な。


水差してすみません。


河合先生の中年への眼差しに戻ります。


「トポスを見いだし、そのトポスとの関連で『私』を定位できるとき、その人の独自性は強固なものとなる。

そのようなことができてこそ、人間は一回限りの人生を安心して終えることができるのではなかろうか。

老いや死を迎える前の中年の仕事として、このことがあると思われる。」


この文章の内容も、最初に読んだときに頭に入ってしまったのだが、引用しようと思ったら、この本が見つからなくなったことがある。

そのままうろ覚えで内容だけ引用してしまった。

この文章に出会うまで、こういう内容を意識したことは、私にはない。

しかし中年の定義としても、みごとなものだと感じられる。

そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである。


養老先生がまだ解剖学者の頃の文章で興味深い。


編集者さんの仕事だと思うけれども


「巻末エッセイ」というのが時代性を感じる。


河合先生の中年の定義について、自分なりの解釈。


トポス=ギリシア語で”場所”。

話題を発見すべき場所(論点,観点)。


ということらしいのだけど、それを前提として


興味のあるものを自ら見つけ

そこにいる自分を

俯瞰できるようになると”己”は強まる。

それができたら、もう人生を終えても

悔いのないもので、めっけもんです。

もしそう思えないのだったら

まだまだ青春の途上ですよ。


と読めるのは、おそらく自分だけなのだろうなあと


思いつつ、そうだとして、自分はどうなのかを問うと


そう思えるから中年、それ以降であることを実感。


さらに感じていることとして、


早起きしての仕事だった本日、天気があまりにも良く


今日が休みだったらなあ、と思わずに


いられませんでしたことは


言わずもがなでございます。


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