養老先生の方丈記の解説を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
深すぎる養老先生の解説。
いろいろなところで先生は
『方丈記』について語られていて
”無常感”というのは言うに及ばずだが
先生らしい視点で語られ印象的なのが
”田舎の米がなかったら、都会の生活も
成り立たない事を長明は800年前から
これを喝破してたのだよ”という
文明への警鐘文脈で引かれておられたが
総体的に解説しているのは珍しいと思った。
解説
時代の転換期を生きた鴨長明
すべてのものは移り変わる から抜粋
『方丈記』は日本の古典の中で、皆さんにいちばん読んでもらいたい本である。
何より全体がごく短い。
原稿用紙にして25枚と聞いたことがある。
ごく短い文章の中に、現在実際に起こったとしたら、とてつもない大事件になるようなことが、次々に淡々と描かれている。
都の火災、養和の飢饉、大震災など、政治的な背景は源平の合戦、福原への遷都、京への帰還など、それぞれを描いても長編文学になって不思議はない。
短い生涯の間に、こうしたことを全て身近に経験してきた鴨長明の晩年の思い出話がこの『方丈記』である。
鴨長明が生きた時代は、日本の全ての転換期だった。
東日本大震災の時にもこの随筆は
注目されたけれど、コロナ禍でも
同じように語り継がれるであろうことは
誰の目からも明白でして、養老先生も
日本の特徴と合わせて指摘されている。
余談なのだけれど、昔から思っていたのは
この随筆を埋もれさせずに発見したのは
誰なのだろうかという本筋とは
ほぼ関係のない所でして
宗教家の方達が語り継いでいたのか
本編に出てくる10歳の男の子が
何か関係するのだろうかとか。
本当は皆、見ている景色は違う から抜粋
鴨長明の時代以降、鎌倉、室町、戦国時代と時代は移り変わる。
それが終わるのが江戸時代で、天下泰平、再び「変わらないもの」が中心となる。
士農工商という「身分」制度は家制度と結びついており、これは時間が経っても「変わらない」。
大名の子は大名、農民の子は農民である。
その意味では江戸時代はいわば世間そのものを情報化した。
それがほぼ300年の平和を生み出した。
鎌倉から戦国までの時代とは大きな違いである。
明治以降はその路線が引き継がれ、現代社会にまで至る。
世界中が情報化して、そこでは情報化は個人にまで及ぶ。
国民は一人一人が番号化される。
でも番号は腰が曲がったり、ボケたり、シワがよったりはしない。
テレビの普及で何が起こったか。
「他人と同じ情景を見ることはできない」という感覚が失われてしまったことである。
富士山の写真を見るとする。
その写真はある瞬間に、誰かが、どこか特定の地点から見た景色である。
「同じ」情景を他の誰にも見ることができない。
だから写真であり、テレビカメラなのである。
ほかの誰も見ることはできない情景を「だれでも見ることができる」ように思わせたのが、テレビを含めたカメラの仕業である。
一卵性双生児は遺伝子は全く同じだが、生まれてしばらくすれば、違う人になる。
見ているものがいつも違うのだから、当然であろう。
個性なんて、取り立てていう必要はない。
人はだれでも、他人とは違うものを見て生きる。
自分に必要なものは何か から抜粋
『方丈記』はこの世に起こり得るほとんどの災厄を見てきた人の晩年の述懐だから、若者には必ずしも勧められない内容ではないかと思う。
そもそも方丈の庵とは、段ボールハウスみたいなもので、もう少しよく言えば、モバイルハウスである。
持って歩ける程度の家だから、家族がいたら、どうにもならない。
ただ『方丈記』で一番大切だと思うことは、鴨長明の自足の思想だと思う。
ものを持たないからいいのではない。
ものがなくても、本人が自足しているからいいのである。
ものをもって、自足しているなら、それはそれで問題はない。
ものを持つ、持たないは関係がない。
自足している人は他人のことをあれこれ言わない。
文句を付けない。
鴨長明はああしろ、こうしろと他人に指図しているわけではない。
世の中はこうでした、でも私はこうでした、と淡々と述べているだけである。
おりしも世界はコロナ禍で日常が変わってしまった。
その状況で、自分に真に必要なものは何か、人生とは何かを想う機会が増えたはずである。
鴨長明の自足の思想はそれにある意味で明確に答えている。
たとえ『方丈記』を読んだことがなくても、その思想は日本人の心の中のどこかに入っているはずである。
よく言われるように、日本列島は災害列島でもある。
自然災害はこの列島に住むものにとって、避けることができない。
東北の大震災以降、その列島が鴨長明の時代と同様に、動き出したらしい。
東南海地震は今世紀前半にほぼ「予定されている」。
首都直下型地震はいつ起きても不思議はない。
大きな災害が起こる時には、『方丈記』がかならず思い出される。
なにがあっても、『方丈記』は日本社会とともに生き続けていくであろう。
予定されている地震の根拠は
おそらく尾池先生の書籍だろうことは
池田先生との対談でも察せられる。
尾池先生の書も読んでみたいと思ったが
高額で手がでないため未読なのですが。
災害の警鐘は鎌田浩毅先生の書にもあった。
僭越ながら自分も以前から『方丈記』は
注視しておりまして生来忘れっぽいのに
それを忘れていないのは20年くらい前に
音声朗読をiTuneで購入していたから
覚えているのだけど、その時はあまり
本腰を入れて聞かなかった。というか
原文朗読だったからよくわからなかった。
コロナ禍で水木しげる先生の書を読んで
再燃し様々なバージョンやら論評などを
読んで理解の一助としている。
中でも白眉は高橋源一郎先生のものだけど
そちらも「モバイルハウス」っていう
表現をされていて、この平仄の合いっぷりは
単なる偶然なのだろうか?
英語がわかるインテリジェンスをお持ちだと
共通してしまうものなのか。
語学も知性もあまり高くない自分には
なにもわからない。
そもそも、浅学な自分が『方丈記』に
なぜ興味を持ったかというと
三島由紀夫先生の最後の対談で
『方丈記』の話をしていて
鴨長明の死者の数を数える心境は
すごいと言っていたからなのだった。
それからざっと30年を経過して
今のような世の中になり、『方丈記』に
再会することになるとは。
先のことは本当にわからないのだなあ
と感じ入る夜勤明け、ブックオフで
『論語増補版』を購入したことも
若い頃の自分では想像だにできんかったと
思う次第でこれも経年がさせている
滋味深い何かなのかもしれないのです。