2冊のノージック博士から”理想の国家”を考察できなかった件 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 作者: 養老 孟司
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2020/09/29
- メディア: 新書
岡本裕一郎 (哲学者・倫理学者)
病に倒れて「むしろ幸せ」という人間の感性 から抜粋
岡本▼
ところで、人の幸福を考えたとき、面白い思考実験があるんですよ。
ロバート・ノージックが1974年に発表した『アナーキー・国家・ユートピア』でこう述べているんです。
「あなたが望むどんな経験でも与えてくれるような経験機械があると仮定してみよう。脳に電極を取り付けられたまま、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか」と。
今で言えばVR(ヴァーチャル・リアリティ=仮想現実)のような、擬似的に幸せになれる刺激をもらえる装置ですよね。
そうした仮想空間で味わう擬似的な体験をし続けることは幸福と呼べるのかどうか、という一つの問いかけなんです。
基本的に「幸福」というものを考える時に、伝統的には二つの立場があって。
一つは、「客観的」な形で幸福を規定できるという立場。
もう一つは、自身の実感として「主観的」に幸福感を味わうという形でしか語れないという立場ですね。
例えば、最近流行ったユヴァル・ノア・ハラリさんの著書『サピエンス全史』の中では、すべての記述が何の説明もなく「幸福感」という文脈で語られているんですよ。
最初から「幸福感こそが幸福だ」という感じで、前提を問うていない。
だから、幸福感という文脈で言うならば、当然ノージックの経験機械にしろ、VRにしろ、仮想空間の中で自分の人生が過ぎ去れば、それが一番幸福だということがあり得るわけですね。
その考えをむげに否定できないのは、例えば同じお金でも、すごくありがたく思う人もいれば、「なんだこんなものか」と感じる人も当然いるからです。
例えば、客観的な知識の場面だと、どうしても自分の思いと現実との対比ということが問題になります。
ですが、幸福に関しては、現実と自分の感覚を対比しなくても、幸福感なら幸福感だけで、ある程度完結するわけです。
なので、客観的な状態ということと切り離して、幸福感を論じるという方向はありますね。
この後、養老先生は亡くなられた多田富雄先生
の病後の活躍について引き合いに出される。
何を幸福と感じるのかは主観的なもので
それを突き詰めると人間本来の”生きる”と
いうことと相反するってことなのか?
”幸福感こそが幸福”というのは
どういう状態なのだろう。かなり難しいです。
これは哲学的な命題なのだろうか。
ノージック博士の”経験機械”については
井上智洋先生も指摘されていて
思考実験という表現で仰っていたが
実際に電極を入れたってことではなく
比喩だったのだね、ノージック博士の言説は。
猿に電極ってのは養老先生と池田晶子先生の対談で
仰っていたけれども、それを反射的に勝手解釈
してしまいました。
でも気になるノージック博士の言説は如何に。
序 から抜粋
諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害すること無しには)行い得ないことがある。
この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官史たちがなしうることーーが仮にあるとすればそれーーは何かという問題を提起する。
個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるのか。
本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当化(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。
暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。
それ以上の拡張国家は全て、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。
最小国家は、正当であると同時に魅力的である。
ここには、注目されて然るべき二つの主張が含意されている。
即ち国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置を使用することができない。
むずい。とてつもなく。表現の問題なのか。
なぜ幸福が"good"なのかみたいな瑣末なのも含め。
小さくすれば理想のコミュニティになる
大きいから問題だと読めなくもないのだけど。
私は(本書で)、認識論や形而上学における現代的な哲学上の著作の流儀で筆を進めている。
そこには、手の込んだ議論、非現実的な反証例を持ち出しての主張の論駁(ろんばく)、面くらわせる様なテーゼ、パズル、架空の構造的条件、特殊な領域の事柄に妥当する新理論を見出すための挑戦、驚くべき結論、等などが述べられている。
この手法は、知的な面白味と(望むべくは)刺戟に資することはあっても、倫理学上・政治哲学上の真理はもっと厳粛かつ重要なものであって、このような「俗悪な」道具立てによって獲得されるものではないと感ずる人もいるかもしれない。
しかし、倫理学上の正しさというものは、我々が普通に考えているものの内には見出せないのかもしれないのである。
本書の内容については、本文中で取り上げて論じているが(序でも)さらに、後に続く議論を簡単に述べておくことが許されよう。
私は個人の諸権利を強い形で定式化することから出発するのであるから、無政府主義者の次の主張を真剣に取り上げる。
即ち国家は、暴力の独占を維持し領土内の人々全員を保護する過程で、不可避的に諸個人の権利を侵害し、それゆえ本質的に反道徳的な存在である、と。
この主張に対して私は次のように論じる。
誰もそれを意図し、その実現に努力する者がなくとも、国家は無政府(アナーキー)状態(ロックの自然状態で考えられているような)から、誰の権利をも犯す必要のない過程によって生成しうる。
ちょいと軽いタッチでは読めない。
この大作にはそれ相応の覚悟がないと
読めない。しかもものすごくぶ厚い。
そもそも自分はアナーキストでは
ないからかもしれない。
第3章 道徳的制約と国家
<経験機械>から抜粋
人々の経験が「内側から」どう感じられているかということ以外に何が問題になるのかを問う時にも、我々は重要な難問に直面する。
経験機械があれと仮定してみよう。
超詐欺師の神経心理学者たちがあなたの脳を刺戟(しげき)して、偉大な小説を書いている、友人を作っている、興味深い本を読んでいるなどとあなたが考えたり感じたりする様にさせることができるとしよう。
その間中ずっとあなたは、脳に電極を取り付けられたまま、タンクの中で漂っている。
あなたの人生の様々な経験を予めプログラムした上で、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか。
もしあなたが望ましい経験をしそこなうのが心配なら、複数の営利企業が他の多数の人々の人生を研究し尽くしていると仮定して良い。
あなたは彼らが提供する多彩なこの種の経験の書庫またはバイクング献立から、例えば次の2年間用にあなたの人生経験群を選び出すことができる。
2年が過ぎればあなたは、10分間または10時間タンクの外に出て、次の2年間の経験を選ぶのである。
もちろんタンクの中にいる間、あなたは自分がそこにいることを知らず、全てが実際に起こっていると考えることになる。
他の人々もまた、自分の欲する経験をするために繋がれることができるので、他人のために仕事をするために機械から出ている必要はない。
(もし全員が繋がれていれば誰が機械維持の仕事をするのか等の問題は無視しよう。)
あなたは繋がれたいと思うだろうか。
我々の人生が内側からどう感じられるかという以外に、一体何が我々にとって問題なのか。
あなたが決断した時と繋がれる時の間に瞬時の心理的苦痛があるからといってこれを禁欲すべきではない。
一生の至福(もしあなたの選ぶものがそれであるなら)と比べれば瞬時の苦痛など何であろう。
それに、もしあなたの決断が最良の決断であるなら、なぜ心の痛みなど感じるか。
自分の経験に加えて、何が我々には問題なのか。
まず我々は、あれこれ事柄を行いたいと思うのであって、それらをしているという経験だけが欲しいのではない。
特定の経験については、我々がまずそれらの行為をしたいと思うからこそ、それらをしているという経験やそれらを成し遂げたと考える経験を得たいと思うのである。
(しかしなぜ我々は、それらの活動を経験したいとだけ考えず、それらを行いたいと考えるのだろうか。)
繋がれることをしない第二の理由は、我々が特定の形で存在し、特定の形の人格でありたいと思うからである。
タンクの中で漂っている誰かは、形の定まらない塊である。
長時間タンク内にいた人がどんな人なのかという問いには答えようがない。
彼は勇敢か、親切か、知的か、機知に富むか、愛情豊かか。
知るのが難しいというだけではなく、彼には(どうであるという)あり方がないのだ。
機械内に繋がれるのは、一種の自殺である。
心象の虜になった人には、自分が如何なる存在であるかは、それが経験に反映されない限り何ら問題になり得ない、と思われる場合もあろう。
しかし、自分が何であるかが我々にとって重要だとしても、それは驚くべきことだろうか。
なぜ我々は、如何に自分の時間が充足されるかにのみ関心を持ち、自分が何であるかには無関心でなければならないのか。
第三に、経験機械に繋がれることは、我々(の経験)を人工の現実に限定するが、これは人々が構成しうるもの以上の深さや重要性を持たない世界である。
より深い現実との接点は、その経験の模造は可能だとしても、本当には一切ないのである。
このような接触をもち、一段深い意義を探る可能性を、自分自身に残しておきたいと望む人は多い。
精神に作用する薬剤をめぐる争いの激しさは、このことを明らかにしている。
この種の薬剤を、ある者は単なる局部的な経験機械と看做(みな)し、他の者はより深い現実に至る道だと看做す。
ある者が経験機械への屈服と同じだと考えるものを、他の者は屈服しないための理由の一つに従っているんだと考えるのだ!
アナーキーと国家ってのは、何となく
わかるけれど、その後なぜユートピアなのか
なにをするとそれなのかがちとわかりませんで
第3部のユートピアは後付けだ
と序文にもあったので、もしかしたら
一貫性のないものなのかもしれない。
としても、よくわからなかった。
この書名から察するに
”国家”を軸に前後反転して、
秩序(資本主義)・国家・ディストピア
と置き換えるとわかるのだろうか
という読み方をしてみても
正直よくわかりませんでした。
仮にもしそうだとしたら今の状況を
予見していたようで驚くなと思ったのだけど。
マルクスとの関連など興味深く注視しつつ
今後の課題としたいと思いましたことを
謹んでご報告させていただきたいと思います。