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2冊の手引きから”虚構とリアル”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


UFOとポストモダン (平凡社新書 309)

UFOとポストモダン (平凡社新書 309)

  • 作者: 木原 善彦
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2006/02/11
  • メディア: 新書

はじめに から抜粋


まず最初に断っておかなければなりませんが、本書は個々の未確認飛行物体(UFO)目撃事件の真相(本当に「未確認」か、いたずらか、金星の見間違いか、など)を追求しようとするものではありません。

また、異星人は存在するのか、異星人は地球に来ているのか、といった問題を扱っているものではありません。


もちろん、ところどころで「この事件の真相はこういうことだった」ということにも触れますが、本書が扱いたいのはそうした問題ではありません。


本書が扱うのは、「空飛ぶ円盤」(あるいは「UFO」とそれに結びついた存在としての「異星人(エイリアン)」(あるいは「宇宙人」)に関する神話(都市伝説)そのものです。

つまり、空飛ぶ円盤や異星人について社会でどういうことが言われ、信じられてきたかを、歴史的変遷に沿って文化側面から考察するのが本書の意図です。


第3章 エイリアン神話(1973-95)


近代のプロジェクトの放棄


原子炉の核から細胞の核へ


から抜粋


前期UFO神話の時代のUFOは、その超越的ハイテクを人間に対して敵対的に行使することはありません。

仮にそのようなことが起こるとすれば、そこで用いられる兵器(例えば超核兵器)は彼らの技術レベルからして想定される破壊力が大き過ぎます。

ですから、例えば、地球上のある都市が攻撃を受けたというような物語をUFO神話に組み込むことは不可能でした。

それに加えて、「核の危機をずっと以前に乗り越えた異星人たちは平和主義者だ」というコンタクティたちの主張は、そのような暴力的な侵略物語とは相容れませんでした。

いずれにせよ、超ハイテクを持った宇宙人による人間に対する危害という要素がUFO神話の一部となる余地はありませんでした。


宇宙人による侵略という事態は、確かにUFO神話の最初期にはありうることとして人々に不安を与えましたが、異星人たちが何も目に見える行動を起こさないまま年単位の時間が経過するにつれ、その現実的な可能性はほぼ完全に消えていました。

それが超ハイテクと言った時に核兵器を思い浮かべた時代の想像力の限界でした。


しかし、その事情が1970年代に入って大きく変わります。

第二次世界大戦後しばらくは、科学と科学技術の悪魔的側面を表象するものは物理的学的なイメージ=核爆発でした。

これが70年代には、DNA組み換えなどの生物学的なイメージに取って代わられたのです。

70年代に急速な進展を見たバイオテクノロジーはさまざまな騒動や論争を呼んでいました。

この時代には組み換えDNA論争が長く続き、70年代末にはクローン人間誕生騒動が起こり、78年には世界初の試験管ベビーが誕生しました。

当然そこには社会的な不安が伴っていました。


フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『知への意志 性の歴史1』の中で、西洋近代に登場した権力を、以前の「死に対する権力」と対比して、「生に対する権力」と特徴づけ、「死なせるか生きるままにしておくかという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現れた」と主張しています。(フーコー 175)

かなり時代はずれ込んだことになるのですが、これと並行することが科学技術の領域にも起こったと考えられます。


つまり、殺す権力から生かす権力、すなわち生-権力(バイオパワー)への転換が見られたように、20世紀の巨大科学技術において、究極的な殺すテクノロジー(核)から究極的な生かすテクノロジー、すなわち生-科学技術(バイオテクノロジー)への転換が起きたのです。

今や「いかに殺すか」ではなく、「いかに生かすか」が問題となってきました。

そして、第二次世界大戦以後に、先進科学技術を手にしている存在として登場したエイリアンには、科学技術のこうした根本的な変質が最も如実に反映されたのです。

そしてそこにはさらに、ポストモダン化する社会における権力の変質も重なり、キャトル・ミューテレーションやアブダクションやインプラントなどの不気味な要素を含むエイリアン神話が生まれました。


第4章 ポストUFO神話(1995- )ポストモダンのかなたへ


サイエンス・ウォーズ


から抜粋


UFO神話が前期(1947-73)の空飛ぶ円盤神話から後期(1973-95)のエイリアン神話へと変化していった背景には、第二次世界大戦に近代科学に対して芽生えた疑念が不信へと膨らんでいく過程が重なっていました。

そして近代科学に対する不信感の増大は何も大衆文化に限ってのことではありませんでした。


科学研究の領域で1970年代から大きな影響力を持つようになってきたのが、科学史・科学社会学などを柔軟に取り込んだ、学際的な「科学論」です。


科学論の重要な先駆けとなったのはトーマス・クーンの『科学革命の構造』(1962)です。

彼は科学的知識が累積的で連続的なものだというそれまでの考えを真っ向から否定し、科学は共約不可能で不連続なパラダイムの上に立っていると主張しました。

自然科学も他の学問同様に一種の信念体系のようなものに過ぎず、「科学的知識」と呼ばれているものも所詮は文化的構築物に過ぎないというのです。


科学論の中にも、「科学はさまざまな歴史的・文化的・イデオロギー的影響を受ける」というだけの「弱い」バージョンから、「科学はある時代のある社会固有の文化的約束に基づいた恣意的な言説だ」とする「強い」バージョンまで、色合いはさまざまあるのですが、70年代半ばから90年代にかけてフランスのポスト構造主義哲学の影響もあって、「強い」バージョンが大きな影響力を持つようになっていました。


その結果、90年代半ばに起こったのがいわゆる「サイエンス・ウォーズ」でした。

単純にいうなら、科学の客観性を信じる科学者と、その客観性を疑う科学論者との間の論争です。


この「戦争」は、生物学者ポール・グロスと数学者ノーマン・レヴィットが1994年に出版した『高次の迷信』に端を発します。

『高次の迷信』は科学者が科学論者の生半可な知識を批判し、その延長で、人文科学系の学問全体を批判するものでした。


これに対して科学論者側は、1996年4月、『ソーシャル・テクスト』という雑誌の「サイエンス・ウォーズ」特集という形で応じました。

『ソーシャル・テクスト』はいわゆる文化研究的(カルチュアラル・スタディーズ)な論文を掲載している左翼系の有名な雑誌です。


しかし、ここで私が問題にしたいのは「サイエンス・ウォーズ」の展開の詳細ではありません。

注目すべきは、近代合理主義的信念を体現するものとしての科学が生き延びていた時代(70年代初頭まで)には空飛ぶ円盤神話があり、科学論が盛んだった時代(70年代半ばから90年代半ばまで)にはエイリアン神話があったという対応関係です。


第二次世界大戦の科学至上主義の末期を象徴する空飛ぶ円盤神話から、70年代半ば以降の社会構築主義的な「なんでも相対主義」(つまり、客観的事実など存在しない、存在するのは全て「事実」として社会的に作り上げられた構築物だという立場)を象徴する虚構的エイリアン神話へと大きく振れた振り子は、90年代半ばに再び揺れ戻すかのような動きを見せます。


科学者と科学論者とが直接対決を果たした「サイエンス・ウォーズ」をきっかけにして、極端に相対主義的な研究を生みつつあった科学論に冷水を浴びせられた90年代半ば、それまでバブル的に膨れ上がっていたエイリアン陰謀神話も急速にしぼんでいきます。

しかし、「サイエンス・ウォーズ」が単なる認識論から実在論への揺り返しとはならず、科学(至上)主義と相対主義との間で新たなバランスが模索されつつあるのと同様に、UFO神話もエイリアンから空飛ぶ円盤に単純に逆戻りするわけではありません。


90年代半ばという新たな「電子的言語」の時代に、超「主観的」な構築物だったエイリアン神話を支えた「文章」が再び何らかの「客観的」実在へと揺り戻したとき、電子的記録の中に新たな「客観的」実在やメッセージが出現することになります。

90年代半ば以降には、偽造文書や偽造フィルムは力を失い、逆に真正な文書やフィルムやデータが新たな力を得ます。

それは前期UFO神話において謎の飛行物体の写った写真やフィルムが話題の中心だったのとある意味では似ています。

しかし、90年代半ば以降の新たなタイプの都市伝説においては、文書やフィルムやデータの扱いが前期UFO神話の時代とは大きく異なります。


トーマス・クーン博士の書は、


そういうことが書かれていたのか。


まったく気がつけないヌケサクぶりでした。


この後”書き言葉”、”話し言葉”という対比で


語られるジャック・デリダとか、


まさかのカーソンの”沈黙の春”とか


(環境破壊を指摘した時代のアイコンとしてで


特にUFOとは関係ないですが)


ラカン派精神分析学者ジジェク先生の


例え話とか日本からは大澤真幸先生や


東浩紀先生などが引かれ興味は尽きない。


新たな都市伝説へ


から抜粋


新たなポストUFO神話は当然、次のようなものになってくるのではないでしょうか。

エイリアンよりももっと複雑かつ根源的に私たちの存在そのものに関わってくる他者という感覚、いわばシステムに入り込んだアンチシステム、私たちの秩序正しい生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような存在という感覚。

しかし、そもそもあらゆる生命は、常に外界と関わる開かれたシステムであることで生きているのですから、自己なるものの中には深く他者性が入り込んでいて、生きている限りそれは排除できません。

結果として、あらゆるものをコントロールしようとする私たちのパラノイア的な衝動そのものが、わたしたちの手には負えないものの存続という不安を生みます。

それはさまざまな仮面をかぶって私たちの前に現れえます。


新たな異質なもの(エイリアン)は、災害や伝染病に対するパラノイア的な不安という形で虫かウイルスのような姿で現れることになるかもしれません。

ウイルスはまだしも生物的な活動をするものですが、新たな神話の核にはそのような生命さえ必要ありません。

環境ホルモンのような微小な分子レベルの物質が、また新たな形で人々に不安を与えるかもしれません。


新たな神話のベールがはぎ取られ真相が暴かれた時、そこに見出されるのは、近代の理想でもなく、虚構的な陰謀でもなく、ある意味で現実的な撹乱者の姿でしょう。

神話のベールをかぶった現実。

そこにある神話性を見破るのはおそらく容易なことではありません。


時代が動いた時、大衆の社会への不安が


生まれる時、手を変え品を変え、


それに呼応するよう意識または無意識に


創られるUFOストーリー=UFO神話。


世界レベルの世相動向とUFO神話を


照らし合わせて炙り出されるものを丁寧に


検証・解説されていた書で、実は少しばかり


がっかりしたところもあったり、なかったり。


カール・セーガン博士やドーキンス博士を


前もって読んでいたから免疫はあったものの


やっぱりそうなのかあ的な読後感。


それにしても、めちゃくちゃ多くの


参考文献が出てきてそちらも興味深かったし


何よりこの書を読むきっかけが


福岡博士のおすすめ本でもあったので



福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

  • 作者: 福岡伸一
  • 出版社/メーカー: メディアファクトリー
  • 発売日: 2012/12/28
  • メディア: 新書

ハイソサエティの知性な人達にかかると

UFOもこうなるのか、という浅ましい


自分の知力の低さを露呈してしまった


読書でして、そろそろお風呂掃除と


トイレ掃除してお昼ご飯でございます。


 


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