『月刊住職』の書籍から”仏教”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
豪華絢爛な執筆陣でございまして
それだけも驚くけれど、内容も濃い。
テーマがいけている証拠なのでしょう。
中村桂子
同志としての住職への呼びかけ
から抜粋
現代社会は、戦争も含めて自然破壊をすると書いたが、それは人間自身の破壊にもつながる。
なぜなら人間は自然の一部なのだから。
人間というの自然の具体はその体と心であり、事実、最初にあげたように、人間の体と心が壊れているとしか思えないような現状をなんとかしたいと思う。
こうして考えていくと、科学と基盤にしている生命誌と心を対象とする宗教とのつながりが見えてくる。
心に正面から向き合うのはあまり得意ではない。
しかし、
「人間が生きものとして日々生きていくことを大切にする」
という当たり前のことを考えていると、どうしても体と共に心について考えざるを得なくなるのである。
それは、第一の関わりとして書いた日常と重なり合う。
宗教・心という難しいテーマを日常というあたりまえのことのところに引き摺り込むのは失礼かもしれないが、生命誌という仕事の中ではそのように考えている。
こうして仕事と日常の両方で私の生活の中に「住職」という存在がある。
それは「生きる」というあたりまえのことがあたりまえにできる社会を作りあげる”同志”としての存在である。
(『月刊住職』2015年10月号)
養老孟司
お坊さんという壁
から抜粋
鎌倉生まれの鎌倉育ちなので、子どもの頃からお寺で遊ぶのはいつものことだった。
門前の小僧である私と、仏教との関わりは、だからお坊さんの手引きからではない。
ものの「考え方を考える」ようになってからである。
ものを考えるのは脳に違いない。
だから40代に『唯脳論』という本を書いた。
この表題は編集者がつけてくれた。
内容がなんとなく唯識を感じさせたのであろう。
その後、たまたま中村元先生の仏教に関する入門書を読んでいて、阿含経の解説に目をやった時に驚いた。
自分が本に書きたかったことが阿含経の要旨のなかにすべて含まれていたからである。
なんだ、ものを考えたら、仏教になってしまうんじゃないか。
その後、旧制高校を出た先輩に聞いたことがある。
旧制高校では、世間に所するなら儒教、個人の生き方を考えるなら老荘、抽象的な哲学を考えるなら仏教、そういう常識があったらしい。
日本語でものを考えると、結局、仏教になってしまうんだな。
乱暴な結論だが、私はそれを身に染みて感じたのである。
だからといって、阿含経をきちんと勉強しようなどという殊勝な気持ちはなかった。
後に河合隼雄先生が主宰する華厳経研究会に参加させていただいた。
じゃあ華厳経を勉強したかというととんでもない。
河合さんの会では、河合さんのダジャレを聞いていただけである。
その会には作家の夢枕獏さんや、中沢新一さんが参加されていた。
河合さんも中沢さんも仏教に関心が強い方たちである。
ただ二人が集まると、同じことを言っておられた。
「仏教は好きだが、坊さんは嫌いだ」。
この辺りがなかなか興味深いところであろう。
仏教には魅かれるが、お坊さんという壁がある。
ではそれがいけないかというと、私は必ずしもそうは思わない。
それでいいんじゃないかと思う。
なぜかというと、お坊さんといえども、多少は?仏教を学んだに違いないので、それなら仏教を学ぶということは、そういう人たちを、つまり河合さんの嫌いなお坊さんたちを事実として生み出す、ということでもあるからである。
しかも右のように考えるのが、仏教的ではないのか。
そうとすら思ってしまう。
これでお分かりであろうが、私の仏教はまったくの我流である。
お寺があって、お坊さんがいる。
それが大切なことなのだと思う。
(『月刊住職』2017年10月号)
町田康
強烈な現世否定の話を聞きたい
から抜粋
だからさっきはエンターテイメントと言ったが、実は現今の文学も映画も音楽も建築も美術もこうしたモデルのひとつで、この世ではない、もう一つの世界の提示というものが、そのベースにある。
しかし、やはり多くの人が求めているのは精緻な論考や勿体ぶった詠嘆ではなく、直接的なおもしろ味、すなわち『宇治拾遺物語』的な世界で、そういうものによって一時、自分を忘れ、この世のことを忘れて救われることを願っているのである。
という訳で、いま現在は中世の仏教が果たしていた役割のほとんどを音楽や映画が担っている。
極端な言い方をすれば、いまの音楽や映画、美術さらには学問も、かつて仏教が担っていた役割を担って宗教化しているといえる。
けれどもそれは極端に希釈され、当たり障りのない綺麗事、上っ面な者ばかりと成り果てて、提示するもうひとつの世は魅力に乏しく、それどころか、生ばかりを強調し得て死をないことにしているため逆に死への恐怖を増大させ、最近では、死は悪であり、間違ったことである、といったような風潮を呼んでいるようにすら思える。
そうして考えてみれば、そうした学問や芸術、芸能の源流である仏教は現状どうかというと、そうした「おもしろい」芸能部分はほとんどなく、知識人に訴える真面目な研究、或いは、一般からは、よく、抹香臭い、と言われるような陰気な部分だけに特化している。
けれども現今、昔の日本の仏教にあったような強烈な現世否定、現実否定を根幹に持ちながら、人の身体や感情に直接訴えかけるような、新しい仏教音楽や美術で、もうひとつのこの世を提示すれば、救われない若い人、先の見えない状況の中で働く人、自分の生涯を振り返って悔いている人などの救いとなり、先の見えない状況の中で働く人、自分の生涯を振り返って悔いている人などの救いとなり、死の恐怖が和らいで生も輝くのではないかと私は思うが、そんなことは小説でやれ、どあほ。
と多くの方が仰るだろう。
申し訳ない。
(『月刊住職』2017年11月号)
仏教は日本人の心や身体に染み込んでいる。
しかも独自の日本の仏教として
”大和仏教”とでもいうのか。
それが文化を作っていてこの書になって
警告とか警鐘という構造になっている。
まさにこれが輪廻なのか。
そうなってない人の随筆もございまして
それはそれで意義深いですが。
小林亜星先生のも印象に残った。
あまり存じ上げないのだけど、かなり
ぶっ飛んだ方なのではなかろうかなんて。
さらに内田樹先生の寄稿も興味深かった。
神聖な空気の醸成は人が作るという
ざっというとそういう言説なのだけど
お寺についての言及が一言もありませんよ、
いいの?と思ったりもした夜勤前そろそろ昼食。
地震が心配な我が国でございますなあ。
どうしようもないのだけども。
備えと心構えくらいなのかな、できることは。