『坊っちゃん』から”日本語と人生”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
この時期に夏目漱石を読むというのも
なかなか乙なものでございますが
『坊っちゃん』の中学生シリーズ的な
現代語版を訳あって入手したので一気読みした。
数年前『こころ』を読んだ時も思った事を思った。
これは本当に100年前に書かれたものなのだろうかと。
日本の悪童物語の典型
から抜粋
『坊っちゃん』という作品は日本の悪童物語のひとつの典型です。
そして、この典型はいまにいたるまであまり破られていない、つまりいまでも通用する悪童の典型物語だということができます。
鴎外VS漱石
から抜粋
吉岡▼
夏目漱石が雑誌「ホトトギス」に『坊っちゃん』を発表して、100年です。
森鴎外の「舞姫」からだと120年弱。
いまだに読み継がれている。
これはたんに教科書に載っている、というだけじゃないね。
池田▼
漱石の文章はいま読んでも違和感がないからだよ。
『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』は、江戸っ子の話し言葉を元にして作ったもの。
それが今でも読めるということは、漱石の作った文体が、結局その後の日本語になったということだよ。
その影響を受けた芥川龍之介なども同様の文体で書き継いで来たものだから、その源流の漱石の作品はすっと読める。
それに比べると、鴎外の初期の作品は読めないよ。
第3章「夏目漱石」という憧れの構造
私たちの内面を耕した漱石の知性と教養
から抜粋
やはり人間理解力が知性や教養によって支えられていることが、漱石や鴎外を読めばわかる。
フランス文学でも、ユーゴーやバルザックやスタンダール、プルーストなども大作家たちが、国民の知性・教養や人間理解力を総合的に伸ばすことに貢献している。
日本にも『源氏物語』など優れたものがあるが、問題意識が直接近代的というわけではないので、作品の内容を正確に理解することが難しい上に、すぐに人間理解力を育てるのに役立つテキストにはならなかった。
漱石は単純に作家というだけの存在ではない。
私たちにとってもっと大きな存在である。
高い教養や知性をうかがい知れる彼の作品は、世界に出してもまったく恥ずかしくないものである。
漱石は小説を読むという行為自体も、作品を通じて国民に教えていったと思う。
それ以前にも小説を読む習慣はあったと思うが、私たちが今当たり前のように文庫本で漱石を読むようには簡単にはできなかった。
なぜなら文字を追いながら、頭の中にイメージを湧かせ、登場人物の心情に自分を重ね合わせ、いまどんな変化が起こったのだろうかと自分自身に問い掛けつつ読む行為は、相当な精神的エネルギーを使うからだ。
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第2講 自分の頭で考えろ
大人でない大人たち
から抜粋
先日、面白いことがありました。
私は鎌倉でタクシーに乗りました。
女性の運転手さんで、話しているうちにこんな話になりました。
「最近、会社が『係長』を作ったんですよ。それまで係長なんてなかったのに。男の人って馬鹿みたいですね。係長っていうだけで言葉遣いが変わるんですよ」
社会ではこうした馬鹿なことがたくさん起こります。
当たり前の顔をして、「俺は○○だから偉い」と肩書きを背負って威張る人、その肩書きに忖度する人もたくさんいます。
これは「大人」ですか?
こんなのは大人ではありません。
漱石はそういうことを気にしなかった。
だから独り立ちしたのです。
誰とは言いませんが、日本の政治家にもそんな人がたくさんいます。
なぜ私だけでなく、日本人は漱石が好きなのか。
同時代の明治の文学の中でも、漱石がこれだけ読み継がれるのはなぜか。
漱石が描いたのは、人の成熟と社会との関係です。
近代化に伴い、憂いからの悲劇が
芥川先生だったというのは周知の事実。
その芥川は頭の作家だったが夏目漱石は
身体性を伴っていたというのが養老先生の言説で。
もっと辛辣に批判されていたけれども。
それにしても自分は今「吾輩は猫である」も
拝読中なのですが、本当に奥が深い夏目先生、
世界文学や言語、さらに落語にも通じていて
言いたいこともあり書く才能を持っていたという
いわば天才というよりも超人のようで
裏のメッセージについては高橋源一郎先生の言説が
かなりユニークだった。併せてこの書も興味深い。
そろそろ夜勤の準備をせねば、と思う暑い1日の
始まりでございます。
余談だけれど妻と大昔に行ったロンドンで
泊まった宿近くに夏目漱石ゆかりの場所が
あったのをふと思い出しましたことを
付記いたします。行かなかったんですけどもね。