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2冊の内田・岩田先生の対談から対話と世間を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

長引くコロナ感染症、気がつけば3年経過。


こんなに長くなるとは誰も予想してなかっただろう。


ということがトリガーになった訳ではないが


内田樹・岩田健太郎先生の書籍2冊を読んだ。


岩田先生は年代が近いから


感覚とか言葉とかなんとなくわかる気がした。




コロナと生きる (朝日新書)

コロナと生きる (朝日新書)

  • 作者: 内田樹・岩田健太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2020/09/11
  • メディア: 新書


はじめに 岩田健太郎


から抜粋


一般的に、ぼくは対談が大好きで、対談の企画をいただくとたいていお受けしてしまいます。


なぜ、対談が好きかというと、「他者の言葉」に興味があるからです。

「他者」というのは、「自分と同じようなことを言わない、考えない」人のことです。

内田先生のお言葉は(あるいはその著書でも)「そうか、そういう考え方もあったのか」という驚きをしばしばもたらします。


ぼくは自分の専門外の本を読むのが大好きなのですが(その本は「他者」だから)例えば内田先生が傾倒されているレヴィナスの本などを読むとしばしば「迷子」になります。


<一切の現在、一切の再現可能なものに先だつような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている>

(E・レヴィナス/合田正人訳『存在の彼方へ』)

 

こんな文章を最初に読んだときは、それはもう迷走、迷子状態に陥ったものです。

しかし、迷子になるのはある種の快感を伴うものでして、それは自分が知悉(ちしつ)しているいつもの世界の殻を破る、一種の冒険のようなものなのです。

ぼくは、セルフ・エスティームが非常に低い人間ですので、自分の小さな世界の枠を刷新していきたいと、ついつい考えてしまうのです。


さて、話は変わりますが、アメリカでは科学の粋を極めたレベルの高い話、をするときにしばしば「ロケット・サイエンス」という比喩を用いて説明します。

「この理論を理解するには、とくにロケット・サイエンスが必要、というわけじゃないけどね…」

という使い方をするのです。

つまりは、ロケットの打ち上げに必要な自然科学的知見は、その他の自然科学の知見に比べると格段に高いレベルの知能、知性を必要とする、という意味です。

昔は米ソで盛んにロケット開発競争が行われましたが、それは一種の軍事競争であったと同時に

「どちらが自然科学界のヘゲモニーを握るのか」

の覇権争いでもあったように思います。


しかし、その科学の粋を極めたロケット・サイエンスを駆使しても、やはりロケット事業はときに失敗します。

しばしば打ち上げは不慮のアクシデントから延期や中止になりますし、墜落したり、パイロットの死を招くことすらあるのです。

さて、そのような問題が生じたとき、その問題はどのように克服されるのでしょうか。

それはやはり、ロケット・サイエンスによって解決・克服されるのです。


間違っても、経済学者や政治学者や生物学者や、あるいは医者とかが

「俺が正しいロケットの打ち上げ方を思いついたぜ」

と代替案を提示したりはしないのです。


どのような専門分野にも問題は生じ、失敗は起こります。

しかし、その専門領域そのものの内部にある問題は、専門領域が問題を看破し、解決していくほかはないのです。

そこは外的にはどうこうしようがありません。


ぼくは感染症のプロになる訓練をアメリカで受けました。

よって、ぼくをよく知らない人たちは

「イワタはアメリカかぶれだ。日本を全否定し、国益を損なうサヨクである」

と非難します。

ダイヤモンド・プリンセス号の実態を動画で告発したときも、

「イワタが日本の恥を海外に伝えた」と非難されました。

非難されるべきは、背広の官僚がアウトブレイク真っ只中のクルーズ船に総出で突入してしまう、その素人芸っぷりにあるのですが。


おわりに 内田樹


から抜粋


ふつう岩田先生くらいにシャープだと、ことの正否についてすぐに断言しそうな気がしますけれど、そうじゃないんです。

少なくとも僕が相手の場合には、僕がどんな変てこなことを言いだしても、岩田先生は最後まで黙って聴いてくれます。

いったんは「なるほど」と受け入れる。

そして、それを吟味してから、追加の質問をする。

その場では簡単にことの黒白の決着をつけない。

でも、これは臨床医としての基本的なマナーなんだと思います。


今回のコロナ・パンデミックでは、関連する書籍がたくさん出版されました。

これからも出版されると思います。

僕が願っているのは、本書がこの出来事に対処するときに役立ついくつかの実践的知見を含んでいることだけでなく、パンデミックが終息した後もできるだけ長くリーダブルであって、ときどき書棚から取り出してぱらぱらと気に入った頁を読んでもらえるような本であることです。

そういう本ができたらよいのですが。


少なくとも、私にとってはそのような


本となっております。


付箋を貼りまくっております。




リスクを生きる (朝日新書)

リスクを生きる (朝日新書)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/03/11
  • メディア: Kindle版

はじめに 岩田健太郎


から抜粋


いつのことだったかは覚えていないが、内田樹先生があるとき、

「ミリオンダラー・ベイビーは、あしたのジョーですね」

とおっしゃって「はあ?」となったことがある。


「こういうのはフッサールの<本質直観>なんかいな?」

と門外漢は素朴に考えちゃったりするのだが、あまりテキトーな素人談義を重ねるとボロが出るのでこのへんで止めておく。


おそらく、ほとんどの人は両者を直接的に比較することなんて思いつかないだろうし、しつこく指摘するしかできないのではないだろうか。

それができるんだから、本当に内田先生はすごいと思う。


折口信夫は人間の知性に「別化性能」と「類化性能」があると指摘したそうだが、個人的な意見を申せば

「別化性能」

ーーAとBのここが違う、あそこが違う、と指摘する能力ーー

よりも

「類化性能」

ーーAとBってこのへんは同じじゃね?と指摘する能力ーー

のほうがより高度な知性を要すると思っている。

「ミリオンダラー・ベイビー」と「あしたのジョー」の話を聞いて、僕はすぐにこの「類化性能」の話を思い出したのだった。

「類化性能」は、一見異なるバラバラに見える現象の羅列に、共通した「構造」を見出す能力、と言い換えても良いのではないか。

これはなかなかに難しい作業なのである。


僕ら、感染屋が日々やっているのも、この「構造」を見出すための努力である。

最も、僕らには「本質直観」みたいな強烈な武器はないので、実際にやっていることはとてもとても泥臭いものとなる。


そのような思考法を経ての


ひとつの仮説立てとして、と


それにほぼ同じ構造を


辿っているけれど


雑で短絡的な言い方とを比較される。


ご自分の仕事の限界点みたいなものを


虚しくお感じになられ、でも前を向く岩田先生の


気概が伝わってきます。


大胆にコロナを風邪のようなものとみなし、検査もせず、治療薬も提供せず、診察すら受けずに自宅で待機していただく

 

という選択肢は可能になる。

これは、

 

コロナなんて風邪みたいなもんだよ。ほっときな。

 

という全く勉強を経ずに条件も加味検討せずに

「シンプリスティックな断言口調で」論じてしまう、自称感染症に詳しい人がテレビで言いそうな言明とは全く似て非なるものなのである。


前者は複雑な現象からシンプルな結論を抽出し、後者は単に複雑な現象を無視してシンプリスティックに、(あまりにシンプリスティックに!)断定か増しているだけなのだ。


シンプリスティックに断定口調で喋るやり方は、例えばテレビ番組のコメンテーターやYou tubeのインフルエンサーの喋り方と同じである。

プロはたとえシンプルに喋っても、断定口調は回避しようとする(条件を加味しようとする)から、「絵的に」切れ味が悪い口調になる。

日本のテレビで「自称感染症に詳しい人」のほうが感染症のプロよりも重宝されるのは当たり前だ。


まあ、このようなことをいつも考えているのだけど、こればかりでは、だんだん気分が鬱々としてくるのは当たり前だ。

なので、本書作成のために数週間に一回のペースで行われた内田樹先生とのお話は、僕にとってはとても楽しく、また気持ちの安寧が得られる素晴らしい体験だった。


おわりに 内田樹


から抜粋


コロナについては、岩田先生も

「それは名前の問題ではなく、時間の問題なのだ」

という立場を最初から最後まで一貫してきたと思います。

僕もこの立場を強く支持するものです。

ウィルスがほんとうは何ものであり、どういうふるまいをするのか「わからない」。

それでも、経験的にわかること、実践的にできることはある。

別に全知全能でなければ感染症に対応できないということはありません。

限定的な知識、限定的な能力であっても、できることはある。

あれば、それをする。


岩田先生はこの本の最後の方で、

「医者は往生際が悪いんです」

と言われてましたけれど、これもまたみごとに医療の本質を言い当てた言葉だと思います。

薬石功なく」という状態になっても、最後の最後まで手元にある限りの医療資源を投じ続ける。

そういうときに

「どうせ死ぬんだから、無駄なことはするな」

というのはたしかに「正論」ですし、場合によっては合理的です。

でも、人情としては受け入れ難い。

この「往生際の悪さ」こそが実は医療者の真骨頂であり、実はその

「往生際の悪さ」

が累積して、それが医学の進化を推し進めてきたのだと思います。


内田先生の道場、凱風館でも


対談は行われた模様。


お二人は家も近いとのこと。


行ってみたい、凱風館。


何も武道系、できないけれど。


 


お二人とも世間からズレているから


気が合うのだろう。


そんなニュアンスが全体的に


伝わってくる書籍で


もしや自分も?なのかもしれないけれど


よくわからない。


家族の中では間違いなくズレている。


 


余談だけれど対談の中に出てくる、


古典芸能について


興味あり自分もやってみたくて


近くに教室があったけど


コロナ禍でクローズ中だった。


お金もかかりそうだし、いったん


今日の夜勤の準備を始めて再検討しよう。


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