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知性を宮本百合子さんの文章で考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

宮本百合子さんは、何かで知ったような


記憶あり、教科書だったか?


忘れてしまったけれど表紙が素敵で


手に取ったのでした。



新編 若き知性に

新編 若き知性に

  • 作者: 宮本 百合子
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2017/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 


 


出版は2017年だけど


宮本さんは作家で


明治生まれ、1951年に51歳で


亡くなられております。


当時女性が社会進出するのは


日本でも珍しかったと察します。


 


知性の問題(1937年)から抜粋


知性というとき、私たちは漫然とではあるが、それが学識とはちがうし日常のやりくりなどの利巧さというわれるものともちがった、もう少し人生の深いところと関係している或るものとして感じとっていると思う。


教養がその人の知性の輝きと切りはなせないように一応見えるが、現実には、教養は月で、知性の光を受けることなしにはその存在さえ示すことが出来ないものと思う。

 

教養ということは範囲のひろい内容をもっているけれども、そういう風な教養は外から与えられない環境のなかで、すぐれたいい素質として或る知性を具えているひとは、その知性にしたがって深く感じつつ生活してゆく間に、おのずから独特な人生に対する態度、教養を獲てゆくという事実は、人間生活の尽きぬ味わいの一つであると思う。


知性は、コンパクトではないから、決して固定した型のものにきまったいくつかの要素がねり合わされていて、誰でもハンド・バッグに入れていられるという種類のものではない。

そのゆたかさにも、規模にも、要素の配合にも実に無限の変化があって、こまかく見ればその発動の運動法則というようなものにも一人一人みな独特な調子をもっているものだろう。

とりどりな人間の味、ニュアンスと云われるものの源泉は、恐らくはこういう知性の微妙な動き、波動の重なるかげにあるように思われる。


誰しもこの世の中に生まれたとき、既にある境遇というものは持っている。

それにつながった運命の大づかみな色合いというものも、周囲としては略(ほぼ)想像することが出来る。

西洋に、あれは銀の匙(さじ)を口に入れて生まれてきた人というような表現のあるものもそこのところに触れているのであろうが、人間が男にしろ女にしろ、生えたところから自分では終生動き得ない植物ではなくて、自主の力をもった一箇の人間であるという事実は、その境遇とか運命とかいうものに対しても、事情の許す最大の可能までは自分から働きかけることも出来ることを示している。


「人間は考える葦(あし)である」

というのような云いかたは詩的な表現として好む人もあるだろうが、現実の人間はもっとつよく高貴な能動の力をひそめているものである。

根はしばられつつ、あの風、この風を身にうけて、あなたこなたに打ちそよぎ、微に鳴り、やがて枯れゆく一本の葦では決してない

人間は自分から動く。

動くからこそ互いに愛し合いもすれば、傷つけ合いさえもする。

そのように人間の動きは激しいのであるが、その激しい人間の間の動きは、よしあしにかかわらず、一定の境遇とか、そこから予想されそうな運命というものをも、どしどし変えてゆく


そとからの力として否応なくどんなにおとなしい一人の若い婦人の日常にもそういうものが様々の形をとって迫ってくる激しさは、今日私たちがありあまる程の実例の中に犇々(ひしひし)と感じているところではなかろうか。


なんとなく文体が岡本太郎さんに


似ているような、そんな時代の


ものすごい空気を感じる。


 


調べると共産主義に傾倒して


捕まったりされておられるようで。


 


ものすごい経験に裏打ちされた


シンプルな文章だと感じた。


 


「知性」ってよくよく考えると


なんなのかよくわからないけれど


「品性」とかと同じように


ものすごく大切なものなのでは


ないだろうかと思う今日この頃です。


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