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デジタルネイチャー:落合陽一著(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


デジタルネイチャー: 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー: 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

  • 作者: 落合陽一
  • 出版社/メーカー: PLANETS/第二次惑星開発委員会
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: Kindle版

読み出しは若干、分かりにくかったのですが、


それは自分の勉強不足なのだろう。


進むにつれ、エジソンの偉大さ、


資本主義について、明治期以降の日本などの


考察・分析など興味深く、


最終部には「デジタルネイチャー」を


実例までに展開して紹介されているのには


驚いた次第でございます。


「第一章 デジタルネイチャーとは何か


オーディオビジュアルの発明、量子化、デジタル計算機、


そして計算機自然、デジタルネイチャーへ」


から抜粋


デジタルネイチャーとは、生物が生み出した

量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって

再構成することで、現存する自然を更新し、

実装することだ。

そして同時に<近代的人間存在>を脱構築した上で、

計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、

計数的な自然を構築することで、<近代>を乗り越え、

言語と現象、アナログとデジタル、

主観と客観、風景と景観の二項対立を

円環的に超越するための思想だ。

未だ実現していないヴィジョンでありながら、

その萌芽は至るところに現れ始めている。


「機械と自然が融合する時代が始まる」から抜粋


「デジタルネイチャー」という言葉を、

前著『魔法の世紀』で定義してから

約3年が経とうとしている。

1991年に、マーク・ワイザーが提唱した

「ユビキタス・コンピューティング」という概念

ーー生活空間に数多くのコンピュータが

偏在(ユビキタス)し、それらがインターネットと

接続することで、人々はコンピュータの存在を

意識することなく、IT技術の恩恵を

受けられるようになるというヴィジョンは、

27年後の現在、「IoT 」(Internet of Things)の

普及によって実現しつつあるが、さらにその先に

<侘びた>世界観として構想したのが

「デジタルネイチャー」だ。

これまで<人工>と<自然>は対極な存在と

みなされてきた。人類は道具を発明することで、

自然を支配し、文明を生み出す。これは有史以前から、

連綿と続く営為と見られてきた。

その中でもコンピュータは、人類が作り出した

最も複雑な人工物であり、90年代以降は世界に

巨大な変革をもたらす道具として、ソフトの限界費用から

イノベーションの主役となってきた。

そして今、コンピュータは、「道具」という

枠組みを超えて、新しい領域へと踏み出しつつある。

そもそも量子化という意味での<デジタル>は、

生物に固有の情報演算形式であった。DNAやRNAの

記録は4種類の塩基によって量子化され、

コドンによってさらにコード化されている。

網膜や蝸牛も量子化装置であり、空間の光線や

空気振動をデジタル化して神経系へと接続する装置だ。

アナログな光学回路として設計されている虹彩や

レンズと網膜の対比、鼓膜や耳子骨と蝸牛の対比に

身体の中に偏在するデジタルとアナログの通信を

見てとることができる。


「<超人>・<身体性>からデジタルネイチャーへ」から抜粋


我々が想像する未来像「デジタルネイチャー」は、

ユビキタス・コンピューティングの発展の先に、

<実質>と<物質>の境界、<人間>と<機械>の

区別が融解した世界だ。再魔術化ののちにたどり着く、

自然のアップデート。

コンピュータは融けて不明になり、

思想やシステムは既存のものからアップデートされる。

その実現のために、僕が主宰する

「デジタルネイチャー研究室」では、

テクノロジーの発明に伴うアート表現やデザインの

領域まで含めたアプリケーションドリブンの学際的な

研究をおこなっている。

デジタルネイチャーは近い。

我々は今、何がバーチャル(実質)で、

何がマテリアル(物質)なのか区別がつくことなく、

解像度を超越し、その区別が

意味のない世界、人間の会話と

プログラムが生成する会話を

判別できない領域に突入しつつある。

時間と空間の概念理解がコンピュータの中での

データのやり取りとして抽象化され、

あらゆる物理現象の最適化のために

コンピューティングが分散化し自動化しうる。

その意味では知能化した

超自然ともいうことができるだろう。


「終章 思考の立脚点としてのアート、そしてテクノロジー


未来を予測する最適の方法としての」から抜粋


TelewheelChair(2017年)』は、機械知能と

人間知能を組み合わせた

電動車いすを志向するプロジェクトだ。

車いすは一世紀以上大きな変化がなく、

自分自身で操作する、

もしくは介護者が後ろに立って

操作する形となっていた。

高齢者や身体障碍者が健常者と同じように

生活するためには、技術を用いることで、

車いすを人的コストが低い状態で

利用できるように変えていかなければいけない。

例えば従来は車いすを利用する際に、

介護者が付き添う必要があった場合も、

このような遠隔技術を用いることで

付き添いの必要性を下げることができる。

AIとの組み合わせにより、身体障碍者の自立支援や

人間の自動搬送など、従来の車いすではできなかった

身体機能の補完が可能になる。

我々はデジタルネイチャーの向こうに、

高齢者、身体障碍者と健常者という分類がなく、

個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる

社会を目指している。

ブロックチェーンでのVR共有など、視聴覚と

身体拡張の試みは、

前述した「JST CREST xDiversity」を

含め、多くの社会的働きかけとして行なっている。


さすがに養老先生が注目されていて、恐れ入りました。


独自の自国視点、<侘と寂>っていうのもイカしてる。


自分も車いすはなんとかならないのかと


思い続けて、はや30年くらい。


遠い昔、デザインスクールの卒業制作に、


一人でベッドに臥床が


可能な車椅子のプロトタイプを


作ったくらいなので


こういう発想は素晴らしいと共感した次第。


テクノロジーとの合わせ技の発想は、全くなかった。


(AIって概念が80年代にはほぼなかった)


最近の動向を調べたらやはり進化されていた


メタバース、スマートグラス。


34歳で、老いを感じたって、まだ若いでしょう。


でもこういう話って身の回りでもよく聞く。


介護・福祉への動機は当事者意識としてあったのですな。


自分の場合もそうだったけれど。


こういう人が新しい社会とか時代を


作っていくのかと思うと同時に、


大きなうねりになってほしいと願う。


その時自分は何ができているだろうか、なんて。


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