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地球温暖化論への挑戦:薬師院仁志著(2002年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

「第3章 社会問題としての地球温暖化問題


 見えない権威への従属ーー危機の重さと行為の軽さ」から抜粋


 

<朝日新聞2000年9月26日付>

地球温暖化をくい止めるには、どんな行動をとったらいいか、

遊びながら考えてもらうすごろく「ストップ!温暖化ゲーム」が好評だ。

(略)

 

この「すごろく」自体に文句はないが、

地球温暖化危機というのは、「遊びながら考え」る程度の

問題なのかという疑問は生じる。遊んでいる場合なのであろうか。

だいたい、すごろくを作るための資源消費や

生産活動の方が問題ではないのだろうか……。

まあ、すごろくという発想は名案かもしれない。

何だか、冷房がきいた部屋でハンバーガーを食べながら、

トラックで配達されてきたすごろくを楽しむ子供たちの

微笑ましい姿が目に浮かぶようである。

要するに、地球温暖化の危機が広く知れわたり、

多くの人々がその対策のために行動しているにしても、

そこで働いているのは、悩み調べ考え抜かれた上での

危機感ではないのである。本当に自分の生活が

危ういのであれば、子や孫の生存が脅かされるのであれば、

「ショッピングをするような気持ち」で「遊びながら考え」るような

感覚にはとてもなれないであろう。

むしろ、顔面蒼白にでもなってなければおかしい。

そして、自分や家族や子孫の命を本気で心配するのであれば、

たとえ食料配給制でも衣料品切符制でも鉄材供出でも勤労奉仕でも

何でも受け入れるだろう。すごろくをしたり買い替える車の

燃費を調べたりしている場合ではないのである。

ここで、このような状況を嘆いているのではない。

非難しているのでもない。大切なことは、なぜこのような

社会的状況ーー危機の重さと行為の軽さの共存ーーが

成立しているのかを、冷静に分析することなのである。

この種の軽さは、実は、その背後に巨大な力を秘めている。

われわれはこの力から逃れられない。

たとえば、たとえ軽い感覚であれ、車を買うときに燃費を気に

するようにと、密かに脅迫されているのである。

もし必要以上にバカでかい超豪華車でも買おうものなら、

環境に対する意識の低いアホな人間というレッテルを

貼られてしまうことになる。誰もがそれを恐れている

特に、社会・経済的地位の高い人ほどそうだろう。

逆に、自分が「エコ・コンシャス」だということが、

世間体をよくする。つまり「かっこいい」のだ。

誰もがそれを感じている。

そして、誰も、この静かな脅迫から逃れることはできないのである。

この静かな脅迫は、頭ごなしの一方的命令ではない。

有無を言わせぬ力ずくの強制でもない。この脅迫をもたらす、

目立たぬが実は強力な作用こそ、「抑止」と

呼ばれるものなのである。

われわれはこの抑止から逃れることができない。


人生多少長くやってて思うことは、いや、長さというより、


2022年の現代に思うことなのかもしれないけれど、


リアルでは「スターウォーズ」のように「悪」が黒ずくめで、


現れた瞬間に、それっぽいBGMが流れることが


ないということだ。


それは巧妙であり狡猾なもので陰湿なものだ


ということが


後で気がついたりするのだよね。


現実は「ダークサイド」だってことが「わかりにくい」


ってことかね。


しかも他の角度から見ると


「ダークサイド」だとも言い切れないみたいな。


見分けるには感性を磨き考え続けるしかない。


一人だと限界あるけど。


余談だけど、「スターウォーズ」は好きですからね。


特にエピソード4は。公開時小学生で川崎に


見に行ったことはどうでもいいなこれ。


同章から前後してしまうけど、最初の部分から抜粋。


一般向けに地球温暖化論を紹介する書物では、

多くの場合、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の

報告が援用されている。簡単に言えば、

国際的に権威を付与された機関の見解を示すことによって、

人為的地球温暖化論の正当性の根拠としているのである。

ところで、IPCCとはいったい何なのか。

念のため、ここでその概略を確認しておこう。

1988年6月のハンセン氏の「99%証言」が引き金となって、

地球温暖化問題が国際政治の新たな関心事となって、

注目を浴びるようなったことはすでに述べた。

そのような状況下、同年11月、初めての公式の

政府間の検討の場として、国際環境計画(UNEP)と

世界気象機関(WMO)の共催によって設置されたのが、

IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)

なのである。さらに、同年

「12月6日、国連決議(53/43)『人類の現在および

将来の世代のための地球気候の保護』が採択され、

このなかでIPCCを国連が支援する正式の活動として認知」した。

その後、1992年の地球サミット(環境と開発に関する国連会議)に

おいて、「気候変動に関する国際連合枠組条約」が

調印されたのである。なお、温暖化防止京都会議(COP3)と

いうのは、この条約第7条に規定された「締結国会議」の

一つ(第3回目)である。

IPCCは、設立初期から、あたかも国際的な権威のような

形で、その強い影響力を発揮し続けている。

(略)

問題は、少なくとも多くの一般市民にとって、

突如として有名になったIPCCなる存在の権威と正当性の

源泉が見えないことである。ほとんど一般市民にとって、

IPCCの仕事に参加したとされる2500人の科学者の名前を、

一人として暗記してはいないだろう。たとえ名前くらいは

覚えていたとしても、その人物の研究業績に関する専門知識は

ほとんどないであろう。それが普通なのである。

にもかかわらず、IPCCの見解は広く一般に受け入れられている。

この事態は、人々が自分ではよくわからない対象を、

真理を垂れる権威として信じ込まされているような状況である。

重要な問題は、IPCCの見解や人為的地球温暖化論が正しいか

否かよりも、正しいかどうか深く考えもせず、それを権威や

真理のごとく信じ込むような態度なのである。そのような

態度のもとで、国家の政策が決定され、国際世論が

形成されている。われわれは、この事態を

直視しなければならない。

要するに、何だかわからない権威から真理を啓示され、

いつの間にか既成事実が積み重なっているのである。


IPCCのデータの懐疑性や、それをさらに懐疑している


S・シュナイダー氏(気候物理学者)の言説に対して


物言いを膨大な資料や時事・世評・当時の空気等から


ご自分で考察・分析され、話を進める著者は


1961年生まれってことは、ちょい上だけど


同年代ってことで驚いた。


1950年代くらいの環境に関する資料から、


「地球寒冷化」だったり「地球温暖化」が、


何かのイベントとか、トレンドかの如く、


いつの間にかひっくり返っていて


それがまかり通っていることを指摘される。


ちなみにIPCCって、政治的バイアスかかってるから


信用ならんと養老先生との対談でおっしゃるのは、


元早大教授の池田清彦先生でした。


「同調圧力」「忖度」とか、


少し前のキーワードを連想せずにはおれないなあ。


それがグローバルスタンダードになってきているってことなのか。


それにしても、「環境問題」は奥が深くて、何を信じて


考察すればいいのか、そこが何かに試されている気がする。


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