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ほんとうの復興:養老孟司・池田清彦著(2011年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


ほんとうの復興

ほんとうの復興

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/12/09
  • メディア: Kindle版


東日本大震災のすぐ後のお二人の対談なので


当然、災害についてから考察が


リブートされる知の対話。


どこか、諦観というか、無常というか


それでいて妙に納得してしまうのは


贔屓の引き倒しすぎるのかもしれない。


「1 自然とわれわれ 養老孟司」から抜粋


自然保護や自然食品という言葉に含まれる、

「自然はよいもの」という感覚は、

自然の一面しか捉えていない。

自然には今回の災害のような、畏(おそ)るべき

他の一面がある


日本人の美しさに対する感性は、

こうした自然によって育まれてきた。

それを「意識」という脳の一部の機能に依存して、

一生懸命に、ほとんど誠心誠意に、壊してきたと

いうしかない。

それが私が生きてきた時代だった。なぜその美しい国土を

わざわざ傷めてしまうのか。

それが私には理解できない。ほんとうに理解できない。

壊す人たちは「食えないから」という。

私は食糧難の時代に育ち、「食えない」ということが

いかなることか、ある程度は知っているつもりである。

いまほんとうに「食えない」人がどれだけいるのか。

教育はどうなっているか。問題解決型だという。

有能な人とは、「問題があれば、それに答えを出すもの」だと、

頭から信じている。

だから、「じゃあ、どうしたらいいんですか」とすぐに訊く。

でも自然は、初めから答えを出している。解答は目の前にある。

しかし肝心の問題の方が見えてないのである。

まさに話が逆だから、現代人には理解が難しいのであろう。

解答を先に見せておいて、これはどういう問題の

答えか尋ねる、そういう入試をしたらいいんじゃないか。

このところそう思っている。

人生の解答とは、自分の人生そのものであって、

それはなにか複雑な、ややこしい問題への解答なのである。

どうしてこういう解答になったのだ。それこそが人生が

投げかける問題である。

人生は何のためかという問いに、昔から解答がないのは、

問いと答えが逆転しているからであろう。

解答は動かしようがない。自分の人生なんだから、

当たり前ではないか。わからないのは問題の方であって、

人生の方ではない。

自然を観察するとは、じつはそのことである。

解答を先に知って、問題を後から考える

ことなのである。

実験室でネズミをいじめることではない。

「ある動物に、ある操作を加えて、ある結果を得た。

この組み合わせは、君、何通りあると思うかね」。

尊敬すべき私の先輩、解剖学者の三木成夫は、

学会を傍聴しながら大声で私にそういったことがある。

いったいネズミという動物は、

なぜそもそもいなきゃならないのか、

なぜあんな姿形なのか。ネズミはなにかの問題への解答に

違いないのだが、その「問題」とはなにか。

それはまだいっこうに不明である。こう書いても、

なにがなにやら、さっぱりわからないという人が

いるのではなかろうか。

すべての生きものが互いにつながり合って、

生態系を形成している。そうした考え方が、

今世紀中に生物学の主流を占めるようになるであろう。

必ずしも適者生存なのではない。

進化は一本の樹木ではなく、

生きものが互いにつながり合った、網の目である。

そうした考え方は、何のことはない、仏教でいう縁起であろう。

生物学、進化学は、原理的主義と論争を繰り返しながら、

結局は日本の伝統思想と似たものに収斂していくはずである。

世界中が鎖国時代の日本になると考えれば、

それで当然ともいえる。

もはやアメリカに西部はなく、

月に住みたい人がどれだけいるというのか。


頭で考える欠点は、すでにイヤというほど、

あちこちで述べてきた。それが得意な人が成功するのが

現代社会であることはもちろんだが、

こうした災害が起きてみると、誰にも問題が見えるはずである。

原発を計画し、採算を考え、あれこれ指図する人は、

原発の近くに住む人ではない。だから今回の災害で、

いちばん気になったのは、自然というより、むしろ原発だった。

その後の計画停電を含めて、原発事故を

わが国は奇貨とすべきであろう。

その根本はエネルギー問題である。

これも長らく主張してきた。

われわれはエネルギー依存の傾向をやめなければならない。

経済成長とエネルギー消費は、ほぼ並行してしまう。

政府のある部門は省エネ、環境保全をいい、

他部門で景気回復をいう。これはムリである。

ムリをみんなで主張して、政治がうまくいかない

などといっても、それこそムダであろう。

景気を回復しようとして、モノづくりに励むなら、

エネルギー依存になるしかない。金融はその問題を、

モノづくりをする外国に移転するだけだから、

それこそグローバルに見たら、なんの解決でもない。

供給電力の上限を定めるべきではないか。

そのなかで、必要なものに順次、振り当てていく。

その与えられたエネルギー量の中で

徹底的に工夫していくしかない

たしか電力会社は、法律で供給を義務付けられているはずである。

それがエネルギー消費を右肩上がりにするのに、一役買ってきたことは間違いない。

だって電力供給の義務があるんですから。

電力会社はそこで思考を停止してこなかったか。

それが狭い国土に原発を多数設置する、という結果を生んだのかもしれない。

もう一歩先を考えること、つまりわれわれには

どれだけのエネルギーが要るか、それを考えるのも、電力やエネルギー専門家の

義務ではないのか。それで食っているのだから。


日本人は破局のあとには強いが、危機自体の扱いは不得手である。

危機管理などといっているから、それが逆にわかる。

実際に危機管理ができるなら、そんなことはまさに「いうまでもない」はずだからである。

フランス人の自由・平等・博愛みたいなものであろう。

私が旅行のときによく飛行機に乗るのは。それを考えるからである。

思い切った手を、必要なときに打つことが苦手な人が多い

あれあれといっている間に、その事態がどんどん勝手に進行してしまう。

これは「手入れ」の逆である。

自然現象なら、その推移を見ながら

ゆっくり、しっかり手を入れるのが常態である

それが私の考える「手入れ」だ。

しかし人為にしては必ずしもそうではない。

適切なときに、思い切って適切な手を打たなければならないのである。


●戦後日本の自然破壊の総決算 から抜粋


ともあれ原発事故による放射能汚染は、

戦後日本の自然破壊の総決算である。

これで自然破壊の歴史が底を打つことを強く期待する。

いつも思うが、われわれは自分の持っているもので

暮らしていくしかない。なにゆえに中東の石油が日本の生命線になってしまうのか。

それが変だと思わないのか。「とりあえず儲かる」で暮らしてくれば、いずれは天災がやってくる。

地道に暮らして当然であろう。

その元手は自分の自然、つまり身体である。

それがいちばん具合がよくなるのは、自然の中にいるときである。

もともと身体はそういうふうにできているのだから、そうに決まっている。

でも都市に住んでいると、それを忘れる。

都庁の建物を見るたびに、それを思う。

あんなところで1日働いて、マトモな判断ができるだろうか。

脳も身のうちである。人間はああいうところでも耐えられる。

それは「耐えられる」のであって、それが普通だとか、それが人生だとか、いうものではないであろう。


大地震・大津波・原発事故から見えたこと


1天災と日本人 から抜粋


▼養老

釜石では、小・中学校でも、子供たちに

「津波のときは安全な場所にてんでばらばらに逃げなさい」と教えていたんですね。

「津波てんでんこ」という言葉が伝わっているのだそうです。

家族を心配して家に戻ってしまったりすると、逃げ遅れて死んでしまうから、そうならないように、それぞれがてんでんばらばらに安全な高台に避難しろ、と。

ふだんからそうならないように教えていたというのです。

だからか実際に犠牲になった子どもがほとんどいなかった。

 

▼池田

そういう教えが良かったんだろうね。

(略)

変な言い方になってしまうけど、「逃げる」ということをシステマティックに考えていたことでかえってまずいことになったケースもあったんだと思う。

「想定外」の事態に対しては、事前に「想定」していた避難のシステムなんて、ちっとも役に立たないわけでしょう。

てんでんばらばらに、自分の本能に従って逃げたことで助かった人がいた一方で、冷静にシステマティックに考えた人はむしろ助からなかった。

そんな頭もあったのではないか。

養老さんがよく批判する、頭が都市化した「『ああすればこうなる』式で物事を考えて進める人」というのは、今回の津波では助からなかったタイプの人なのではないかなあ。

頭も身体も都市化している人たちが住む東京に津波が来たら、そういうレベルではなく大変なんだけど。

 

▼養老

東京はそもそも逃げ場がないもの。

そうなったら、生き残るかどうかは、運・不運でしかない。


▼養老

運良く生き残ったとして、さきほど池田君が言ったように、その人たちがその後どのように

生きようとするかは人それぞれです。

どういう心理状態になるかも、その人次第です。

大きく分けて言えば、自分が生き残って良かったということを強く感じる人と、そうでない人がいるのだと思います。

生き残ったから頑張るんだと思っている人は元気ですよ。

戦争でもそうだけど、自分が死ぬか生き残るかはまったくランダムな運命でしょう。

そんな中で死なずに済んだ時、自分は運が良かったぞ、

生き残ったぞ、という気持ちを強く持つことが大事だと思う。

 

▼池田

そうだよなあ。ポジティブな人は、「生き残って良かった。自分は運が良かったんだ。

命が助かっただけで御の字だ。これから頑張るぞ」と思えるだろうけど、そうではなくて

「家族が死んでしまった」「仲間が死んでしまった」と悲観的なことばかりを考えてしまう人もいるよね。

それどころか、自分だけ生き残ったことが申し訳ない、というふうに落ち込んでしまう人もいる。

 

▼養老

それと似たようなことは、やはり、終戦後もたくさんありましたね。

(略)

 

▼池田

僕らと違って、若い人たちの中には、それまでの生活にもともと閉塞感を持っていて、なんとなく気持ちが行き詰まっていて、そこから抜け出すために、どこかで全てをチャラにしてリセットしたいと思っていたのもいたと思うよ。

逆にいえば、どんなに偉そうにしていたって、どんなに金を持っていたって、どんなに社会的な

地位が高くたって、地震や津波で死んでしまえばオシマイだから。

それを実際に目の当たりにして、ある種の開き直りの気持ちが生じて、これからまあ、リスタートして、ぼちぼちやっていくのもいいんじゃないか、というぐらいの鷹揚とした構えの人もいると思うんだよね。

みんなが「頑張らなきゃいけない」みたいな雰囲気もまずいと思うんだよ。

あまり頑張らない方がいいという面もあると思うんだ。

この前も、テレビ番組の収録で、今度の震災の復興の話になった時、けっこう「頑張る」という言葉を使う人が多いから、逆に私は「頑張りすぎるのはよくないから、頑張らないでてきとうにやってください」と言った。

そう言ったところが放映されたかどうかは知らないけどね。

「ひとつになろう」みたいなことを言わないとテレビはダメみたいだから。


▼池田

「ひとつになろう日本」なんていうのは間違っているよね。

一律にすれば、同じ災害で全部がいっぺんにだめになるから。

それぞれがばらばらにできていれば、同じ災害でもやられる

ところとやられないところが出てくる。

だって、津波以外にもどんな「想定外」の災害があるか

わからないんだからね。たとえば直下型地震が来て、

津波に関係なく、あたらに造成した高台が全部崩れて

ダメになってしまうということだってありうるわけです。

つまりリスクを分散することがセキュリティになるんですよ。

それを一律にやったらかえって危ないことになる。

便利で効率がいいことと、セキュリティは背半するよね。

不便で効率が悪い方が安全ということがあるわけでしょう。

 

▼養老

それが顕著だったのはベトナム戦争ですよ。

効率の良いシステマティックなアメリカの軍隊が、

結局、効率の悪いアメーバみたいな動きをするベトコンに

勝てなかったんですから。

北ベトナム軍はみんな、てんでんばらばらに

動いていたんだよね。


▼池田

原発事故の歴史を調べたことがあるんだけど、

実は毎年のように起きている。日本で原発が

運転開始されてからもう40年以上たつけれども、

トラブルがなかった年は一度もない

 

▼養老

JCOの事故(1999年)はとてもひどいものでした。

作業をしていて被曝した人が東大病院に転院してきて、

致死量をはるかに超える放射能を浴びているのに

なんとか延命させろと言われていたわけです。

もちろん、助けられるなら、助けてあげたいけれど、

それは無理だったんですよ。

むしろ安楽死させられるなら

そうさせてやりたかったはずです。

その治療を担当したのは僕の後輩なんだけれども、

僕は彼に写真などの資料を全部見せてもらった。

急性被曝した人が東大病院に転院してきたときには、

その人から採取された骨髄細胞は

もうばらばらになっていました。

細胞が再生されないから、古くなった皮膚は

ただれてはがれ落ちていく。体液が染み出し、

それが出血に変わり、爪もはがれ落ちていく……。

朽ちていった命』という本にもなったけれど、

僕は、この実態は公表されるべきものだと思いました。

NHKが番組を本にまとめたものですが、よくやったよね。

急性の被曝事故がいかにひどいものかということを

知らしめるために。 


▼養老

それにしても、しつこいようだけど、なぜ「現実」的に、

水をかぶったらどうしようかぐらいのことが最低限

考えられなかったのだろうねえ。

 

▼池田

それはやっぱり、共産党の議員に指摘されたからだよ。

そこでもう対立的になってしまう

あいつに言われたくない」というような感情が働いてね。

考えてみれば、俺が官庁相手に言ったことなんて、

絶対に通らないもんな。

うちのかみさんが、

「あなたが言うから通らないのよ」

とよく言うんだけどね。

「あなたが言ったら『あいつの言うことだけは絶対に通さない』と

環境省の人は思うから。

だからあなたは黙ってなさい」だって(苦笑)。

 

▼養老

本来はそうならないことが民主的な議会制度の

重要性なんですけどね。

昔の日本は300もの藩があって、それぞれの考え方や

やり方をそれぞれが互いに見て

なんとなく真似たりしてやっていた。

それを中央政府が統制するようになったら、

むしろ問題の解決力は落ちたね。

さっき言ったように、官が介入した産業はだめだもの。

 

▼池田

教育もそうかもしれないですね。

 

▼養老

前から言っているように、文科省は最大のガンです。

(略)

 

▼池田

大学の入試にしても、例えば生物学科なんて

「1週間以内に虫を捕ってこい」と言って、

「お前、これだけしか捕れなかったのか。じゃあ、不合格」とか、

そういうふうにして決める入試の方がずっと良いよ。

 

▼養老

京都大学の入試試験で携帯電話を使ってインターネットを

利用してカンニングをした受験生がいたでしょう。

僕はあれは立派だと思うよ。試験制度の問題を見事に

指摘しているんですから。

携帯電話を使えば解けるようなことを試験にするなと

いうことですよ。

そんなことで学生を選んでいるから、そこからだめな

官僚がどんどんと生まれてしまうんだ。

いまどき、日常的に目の前の「問題」に取り組むときに

まず、インターネットを使わない学生なんていますか

東京電力の計画停電がどうなっているかを調べるのだって

インターネットでしょう。

もはやインターネットがそういうものとしてあることが前提になっていないと入試だって現実的ではない。

現実を見てないという点では入試も原発と同じなんですよ。

「こうあるべき」というような旧来のイデオロギーのようなものにとらわれてしまっていて、現実に追いついていない


あいつにだけは言われたかねえやって、


まるで子供だよね。


人間であるところのゆえん、感情が


物事の判断を左右してしまうってのは、


どうしようもないのかなあと。


誰の意見であっても本当に良いことであれば、


感情を凌駕して選ぶべきなんだけどな。


それと現代の試験作成者というか、試験制度っていうか


それらは旧態然としてるとしか言いようがないような。


試験にパスしても現実的に仕事とは結びつかないパターンって


往々にしてあるからなあ。


▼池田

やはり養老さんとの対談もやった

『ほんとうの環境問題』『正義で地球は救えない』(共に2008年)

でもさんざん言った話だけれども、経済問題の本質も、

環境問題の本質も、エネルギーなんだから。

エネルギーを使うことで世界人口は飛躍的に増加した。

今から200年ほど前に石炭を広く使うようになって、

人口増加率は約七倍に跳ね上がった。

十九世紀はじめの世界人口は約9億人。さらにそこから

100年経って、今度は石油を使うようになると、

人口増加率はさらに上がった。

二十世紀初めに16億人だった世界人口は今から

70億人近くになっているわけでしょう。

 

▼養老

エネルギーをうんと使えばそれだけ楽になるに決まっている。

当たり前のことなんだけれど、そのことを普通の現代人が

どのくらい理解しているか。

やっぱり、生き方そのものを考え直さないと

いけないんじゃないか。

いかに健全に縮小するかを考えたほうが

いいのではないかと思います。

もちろん、縮小するとなれば、

いろんな問題が起こりますよ。

さっき言ったように、経済の問題が起こる。

つまり不景気になる。

さらには、安全保障の問題も起こる。

国力が落ちるし、国防に金をかけるのも

難しくなるからね。


 「電力会社の発電所に電気が通らなくて大変だという矛盾」


 「安全保障を考えて作った原発が安全ではなく危険な装置として認識されている」


その二つを


「どちらも自己矛盾の極み」と


おっしゃる。


では、できることとは、現時点で考えられることとして


石油依存から抜け出し、石油がなくなる前にきちんと


シミュレーションを行うべしというのが養老さんの持論。


持続可能性ともてはやされる昨今を


見つめ直すこと、本当の持続可能とは何かを指摘される。


グローバルで現代的な価値では、家制度なんて

悪き過去の遺物のように見えるかもしれないけれども、

むしろ逆で、いまだからそういうものの持つ継続性や

保守性といったものを真剣に捉えなおさなければ

いけない時代なんですよ。社会のどの部分をどこまで

グローバルにして、どの部分をローカルにするか

これは、人間そのものが抱えている矛盾


だからこそ、生き方を再考することの


重要性を説かれておられる。


少し戻って感情に左右されず、良い成果、


良い仕事にするっていうのって


余談だけど、良いチーム、良い組織っていうことでもあり


だとすると自分は真っ先に浮かぶものがあって


たとえば、1960年代のイギリスのビートルズ、


同じく60年代のアメリカのドアーズ……


ってなんでも音楽の話に持っていくんじゃねーよ。


でもこれは真理のような気がしてならない秋の休日でした。


 


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