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ピーター・バラカン著:ラジオのこちら側で(2013年) [’23年以前の”新旧の価値観”]



ラジオのこちら側で (岩波新書)

ラジオのこちら側で (岩波新書)

  • 作者: ピーター・バラカン
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/01/01
  • メディア: Kindle版

1970年代前半に日本に興味を持った外国人は、


いるにはいただろうけど、実際に住んで仕事まで


するってのはあまりいなかったのではないか?


それと日本って映画「わたしは、ダニエル・ブレイク(2016年)」


を観るとイギリスの社会制度等をベースにしているのが


良くわかるけど(類似点多いんだろね、人口とか王室制とか)


イギリス視点だからこそ、類・相違点ってのが


あるようで、70年代の女性の社会進出やポジションの比較


歩き方、話し方などの違和感とか


ピータさんならではで、とても面白かった。


(当時聴いてらした「プレイリスト」もあり


この本の目玉なのだろうけど


自分は何故か文化の違いとか、


イギリス視点とかが興味あるもので)


来日したきっかけは某音楽出版の会社が


海外事業部で採用があってのことで


著作権周りの仕事をされていたようだ。


イギリスでレコード会社に勤めてて、


日本語も勉強されてたから


音楽の目利きとして採用されたのだろうね。


「1アンイングリッシュマン・イン・トーキョー(1974~1979)」


「タテ社会はつらい」から抜粋


すべてが冒険で新鮮だった一年目が終わり、

二年目になると、今度はしばらくの間、何もかもが嫌になって、

アメリカでも移住しようかと思ったこともありました。

もともと会社員に向いていない自分にとって、

会社の中での人間関係(とくにゴマすりやおべっかなど)が

最大のフラストレーションになっていました。

その時の気持ちを母親に手紙で伝えたら、

変わったのは日本じゃなくて、自分だと

言うことをあなたはわかっているわよね?

という返事が届きました。

それを読んだとき、嫌いなことばかりにとらわれていた

自分の気持ちがふわーっと流れて消えたのを覚えています。

それでも、日本社会で上手くやっていける自信がなかったのも確かです。

東京に来て間もない頃、上司とレコード会社回りをしていた時に

「話についていけないということもあると思うけれども、これは腹芸だから。」

と言われたことがあります。

「腹芸」の意味を知らなかったので説明して

もらいましたが、いまだに理解しにくい文化です。

日本での人間関係は、僕が思っていたより

タテ社会」でした。音楽やミュージシャンも混ざって

団体で温泉に繰り出したりもしましたが、面と向かっては

本心を言ってもらえない、相手によって話し方をまるっきり変える、

へりくだっていたかと思えば人をアゴでつかう、

といったことがカルチャー・ショックでした。

敬語の使い分けも、大学で勉強しただけでは、

自然にはできません。会社で周囲の真似をするのが一番の

上達方法でしたが、何年もかかりましたし、慣れた今でも

時々違和感があります。


ピータさんこの時、23歳くらい。


仕事の悩みを母親に相談するなんて、不遜な言い方に


なるかもしれないけれど、ウブな感じを受ける。


それにしても「腹芸」ってなんだよー、


自分は中年過ぎてるけど知らなかったのだけど、


当時なら十分あり得そうだよな、今もか。


知らない自分が幸せだ。


でもなあ、流行の音楽の仕事に


「腹芸」はないだろう。


「感性」で仕事しないとならないのに。


今もそうかもしれないけど、大きな会社だと


重鎮みたいな古い価値観の抵抗勢力が


いたのかもしれないな。


その後、他社から原稿書きの仕事がきて受けて終われ


それが掲載され問題になり会社に居づらくなったようで。


他社に記事執筆して掲載はまずいでしょう。


さらにその後、YMOの事務所に移って


継続して仕事されたようです。


アーティストサイドにいた方が、まだ似合ってるですよ、自由な感じで。


そして…


「DJからブロードキャスターに」 から抜粋


YMOや矢野顕子のさまざまな仕事をしていた

ヨロシタ・ミュージックには、ラジオの仕事と並行して、

80年代の暮から86年の夏まで、5年半程所属しましたが、

84年から急にテレビの仕事もやることになりました。

洋楽のミュージック・ビデオ中心に紹介する番組。

84年に始まった「ホッパーズTV」(TBS)です。

この企画を立てた人は、ぼくのDJを聴いてくれていて、

こういう司会がいいと思ったそうですが、

その依頼の電話にはちょっと驚きました。

僕自身はラジオでやりたい人間でしたから、躊躇しましたし、

その頃、「テレビの音楽番組の面白いものはない」と

思っていたのです。

ヴィデオ・クリップで見せるといっても、

大体は曲を1分くらいでカットしてしまうし、

そもそもテレビの音質は良くないし、

テレビで仕事をしたいと考えたこともありませんでした。

最初は断ったものの、丁重な依頼だったので、

事務所からさほど遠くないTBSまで歩いて、

ディレクターの話を聞きに行くことにしました。

彼は

「これまでのロックのテレビ番組と違って、

音楽本位の番組にする。見せるもの(ヴィデオ・クリップ)は

全部、最後まで見せてカットしたり、

フェイド・アウトしたりはしない。音はモノラルで良くないから、

レコードからステレオの音を全部ダビングして編集し直して、

可能な限りいい音で流す」

というのです。さらには

大ヒットだけではない。面白い番組にしたい

というので、その意欲に僕自信が刺激され

「やってみようか」

という気持ちになりました。

依頼が年度末ギリギリで、翌年の4月から始まる新番組でした。

YMOのメンバーには、「お前が評論家になるんだあ!?」と

ずいぶん冷やかされました。

(中略)

予算のかかる、コマーシャル出身の作家の豪華な映像も

多かったのですが、ファッションカメラマン出身の

ジャン・ベプティスト・モンディーノが、

トム・ウェイツの<ダウンタウン・トレン>

スティングの<ロシアンズ>のヴィデオを手掛け、

ミュージシャンの姿が目に焼き付く作品を作っていました。

僕が好きなヴィデオ・クリップの一つに、

エルビス・コステロの<アイ・ウォナ・ビー・ラブド>があります。

三分間写真のブースで撮影中の男に、カーテンの隙間から

誰かが顔を出してキスをすると

白黒映像がキスをする瞬間カラーになる、というものでした。

特別な編集もなくアイディア一発ですが、低予算の名作だったと思います。


ちなみに「ベストヒットUSA」には一目置いておられたようで、


あれとは違う路線でということだったようです。


「TVの威力」から抜粋


自分がテレビ番組を担当するようになると、

ある程度の数の人々に影響力を持つようになりますが、

影響の力そのものは、自分でコントロールできるものとは限らない、

ということを客観的に理解できたのはもっと後になってからです。

(略)

80年代のイギリスのロックで人気のあったザ・スミスや

ニュー・オーダーといったバンドは、面白い映像のものが

1-2曲あったので番組で紹介しました。放送がきっかけで、

ザ・スミスが一番好きなバンドになったと、

教えてくれた人もいました。たしかに当時のテレビで、

「ホッパーズ」以外に、ザ・スミスのビデオを流す番組は

なかったはずです。

視聴者が好きな音楽、好きなミュージシャンと出会えたのですから、

それは素晴らしいことだと思いますが、

紹介するぼくの方がとくに情熱を持っているわけではない場合もあり、

それはいちいち番組の中では言わないのです。

1度か2度「これはちょっと……」と感想を付け加えると、

あっという間に「毒舌家」のレッテルが貼られました

一人で選曲することができ、音だけで良し悪しが判断できる

ラジオのほうがやっぱりぼくには向いているようです。


歯に衣着せぬつもりはなくて、事実を言ってるだけなのに


「毒舌家」って心外だろうな。わかるなー。


この後、「CBSドキュメント」(アメリカの「60ミニッツ」という


骨太の社会派ドキュメンタリー番組を挟んで


冒頭と最後にコメントする深夜番組、1988−2010年放送)


を担当され、政治的にノンポリだったピーターさんは、


子供が産まれたこともあり、音楽からだけではない政治と生活を


思考するようになった、とのこと。これもわかるなー。


この番組の時「杜撰(ずさん)」「情状酌量の余地」という日本語も


番組をやりながら覚えていったと書かれている。


語彙力や知性が強化されたってことなんでしょうね。


でも、テレビにしろ、日本の会社(風土)にしろ、


ピーターさんには合わないですよ。


「忖度」しなさそうだもの。


この後、FM NHKで番組持って、インターFMにでも担当し、


話しっぷりを買われ、社長就任を打診され、


それは辞退するも役員に収まるまでに。


会社員は合わないと思ってたのに、よく受けたなあと思うけど


それには、いくつか理由がありそうだ。


新たな番組で、ご自身が若い頃聴いていたラジオは


マジックそのものだったという感覚を


再認識できるものを提供することが実現できそうだ


ということと、一介の社員とかDJでいるよりも


上層レイヤーであれば音楽業界自体にインパクトのある


提言ができると考えたから、というのが要因だったようで。


そういう今後のピーターさんのステートメントも込めての


プロモーションも兼ねて書かれたこの書籍(初出2013年)


だったようだが、本はここまでで人生はまだまだ続く。


ピーターさんの思惑とは別に問題が勃発してしまったようだ。


そこから1年半ぐらいして、なのかな。


14年6月の記事からWebニュースから抜粋


僕が執行役員としてもっとコマーシャルなことをやっていれば

こういう事にはならなかったんだろう。でもね、それはたぶんできない

だから最初からそういうコマーシャルな事を求めていた

InterFMは、僕を起用する事自体がある意味間違っていたかもしれません。


として番組降板、役員も辞めてしまわれたようだ。


この言い方がピータさんらしい。


日本で役員なんてやることは


(なんとなくしか想像つかないし


今会社員でいる人にはこんな言い方申し訳ないけど)


くだらない日本の慣習を強いられるピーターさんには


まったく似合わない。


定期的に役員会議とかあるだろうしね。


(海外で役付きになっても同じかもしれんけど)


辞めたことで、本来あるべきところに収まったのだろうね。


ピーターさんの旅はまだまだ続く


余談だけど、若い頃、「ホッパーズ」「CBSドキュメント」も観てた。


「ホッパーズ」では忘れられないインタビューがあり、


このブログの3月24日の再掲だけど、ご容赦。


1988年ごろ、ドアーズの三人がPRのため来日して、


ピーター・バラカンとTVでトークした内容。


 ▼ピーター

 「初期の作品は、クレジットが「ドアーズ」名義になっていたのは、

 ヒッピー文化と関係ありますか?」

 

 ▼ジョン・デンズモア

 「ヒッピー?どういう意味?」

 

 ▼ピーター

 「分かち合うとか・・・」

 

 ▼ロビー・クリーガー

 「ジムは、ミステリアスな雰囲気を好んでいたんだよ。

 この曲は誰が作ったとか、聴いてる人に悟られたくなかったんじゃないかな」

 

 ▼レイ・マンザレク

 (笑いながら同意)


今でこそ、バンドの内情がわかる本とかで、確認できるけれど


80年後半日本で、こういうコメントはとても珍しく、


若かった自分は驚いた記憶がある。


ビデオ録画したものを何度も観て、このほかいくつか質問してて


覚えてるのはレイの子供が中学生になって、


「The End」を聴いたら「パパ、これってすごいヘヴィーだね」って


言ったと言ったらロビーとジョンが大笑いしていたとか。


50歳過ぎた今でも、忘れてないのでした。 


それと余談の余談、電車の中ででピーターさんが、


CDを開けてライナーノーツを熟読している姿を


拝見したこともありました。


お声がけできないくらい集中されてた。


「ああ、似てる人種かも」って思った。


 


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