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生きるということ新装版:エーリッヒ・フロム著:佐野哲郎役(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


生きるということ 新装版

生きるということ 新装版

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2020/08/28
  • メディア: 単行本

新装版ってことなので、初版はいつか調べたら1976年とあった。


エーリッヒさん76歳の時。初めて読ませていただきましたが、


なぜこの本を知ったのか、多分「老」とか「加齢」とか


ボーヴォワールとかの流れでたどり着いた気がするが、


著者の別の書で「愛するということ」を借りて読めなくて、


でもなんか引っかかってて、こちらにしてみて読んだけれど感想は、


難しい…でも、なんか心に引っかかる。


全然関係ないかもしれないけど、装丁も素晴らしい。


それは置いておいて、題名が気になった。


原題は「TO HAVE OR TO BE?」ですぜ。


はじめに から抜粋


実は本書の表題(To have or To be)と以前に出た

二つの書物の表題とはほとんど同じなのである。

ガブリエル・マルセルの「存在と所有(Being and Having)」

とバルタザール・シュテーエリンの「所有と存在(Haben und Sein)」と。

これら三つの書物はすべてヒューマニズムの精神で書かれているが、

主題へのアプローチのしかたは大いに異なっている。

マルセルは神学的および哲学的見地から書いている。

シュテーエリンの著書は現代科学における物質主義に対する

建設的論議であり、現状分析(Wirkichkeit analyse)への一つの寄与である。

一方、本書は二つの存在様式の経験的=心理学的分析を扱っている。

私はこのような問題に十分な関心を持つ読者に、

マルセルとシュテーエリンの著書を推奨する。


序章 大いなる約束とその挫折、そして新たなる選択


1幻想の終焉 から抜粋


<限りなき進歩という大いなる約束>

自然の支配、物質的豊かさ、最大多数の最大幸福、

妨げるもののない個人の自由の約束ーーは、

産業時代が始まって以来、各世代の希望と信念を支えてきた。

確かに私たちの文明は、人類が自然を能動的に支配し

はじめてきた時に始まった。しかしその支配は産業時代の

到来までは限られたものであった。産業が進歩して動物と

人間のエネルギーの代わりにまず機械エネルギーが、

次いで核エネルギーが用いられ、さらには人間の頭脳の代わりに

コンピューターが用いられるに及んで、私たちは

こう感じることができるようになった。

私たちは限りない生産、ひいては限りない消費の方向に

向かっていることができるようになった。

私たちは限りない生産、ひいては

限りない消費の方向に向かっているということ、

技術が私たちを全能にしたということ、

科学が私たちを全知にしたということ。

私たちは神になりつつあったのだ。

自然界を私たちの新しい創造の単なる建築資材として

用いることによって、第二の世界を

造り出すことにできる至高の存在に。

男、そしてしだいに女も、新しい自由の感覚を経験した。

彼らは自分の生活の主人となった。

封建的な鎖は断ち切られ、人はすべての呪縛から

逃れてしたいことができるようになった。

というよりは、人々はそう感じたのであった。

そしてたとえこのことが上流階級および中流階級に

のみ言えることであったとしても、彼らが

達成したことによって他の階級の人々も、

産業化が今の速度で続くかぎり、新しい自由は

ついには社会のすべての構成員に及ぶだろうという

信念を持つことができた。

社会主義と共産主義は、新しい社会と新しい人間を

目標にする運動から急速に姿を変えて、すべての者の

ブルジョワ的生活を理想とし、未来の男女としての

普遍化したブルジョワを理想とする運動となった。

だれもが富と安楽とを達成すれば、その結果としてだれもが

無制限に幸福となると考えられた。限りない生産、

絶対的自由、無制限な幸福の三拍子が<進歩>という

新しい宗教の核を生成し、新しい<進歩の地上の都>が

<神の都>(天国のこと)に取って代わることになった。

この新しい宗教がその信者に精力と活力と希望とを

与えたことは、何ら驚くにあたらない。

<大きなる約束>の壮大さと産業時代の驚くべき

物質的・知的達成とを思い描くことによって初めて、

その挫折の実感により今日生じつつある衝撃を

理解することができる。というのは産業時代は確かに

その<大いなる約束>を果たさなかったし、ますます

多くの人々が次の事実に気づきつつあるからである。

 

【1】

すべての欲求の無制限な満足は福利

もたらすものではなく、幸福に至る道でもなく、

最大限の快楽の道ですらない。

【2】

自分の生活を独立した主人になるという夢は

私たちみんなが官僚制の機械の歯車となり、

思考も、感情も、好みも、政治と産業、およびそれらが

支配するマスコミによって操作されているという事実に

私たちが目覚めはじめたときに、終わった。

【3】

経済の進歩は依然として豊かな国民に限られ、

豊かな国民と貧しい国民との隔たりはますます広がった。

【4】

技術の進歩そのものが生態学的な危険と核戦争の

危険を生み出し、そのいずれかあるいは両方すべての文明、

そしておそらくはすべての生命に終止符を打つかもしれない。

 

ノーベル平和賞(1952年)の受賞のためにオスロを訪れたとき、

アルベルト・シュヴァイツァーは世界にこう呼びかけた。

「あえて現状に直面せよ……人間は超人になった……

しかし超人間的な力を持ったこの超人は、超人間的な理性の

水準にまで高まってはいない。彼の力が大きくなるにつれて、

ますます彼は憐れむべき人間となる……超人となればなるほど、

自分が非人間的になるという事実に、私たちは良心を奮い起こさなければいけない」


「第一部 持つこととあることの違いの理解


第一章 瞥見(べつけん)


1 持つこととあることの違いの重要性」から抜粋


持つことあることの選択は、常識に

訴えかけるものではない。持つことは誰が見ても、

私たちの生活の正常な機能だろう。

生きるためには物を持たなければならない。

持つことーーそれもますます多くを持つことーーを

至高の目的とし、或る人物について

「百万ドルの値打ちがある」という言い方が

許される文化において、どうして持つことと

あることとの間の選択などあり得ようか。

それどころか、あることの本質そのものは持つことなのであって、

もし人間が何も持たなければその人はなにものでも

ありはしない、と思われることだろう。

しかし偉大な<人生の教師たち>は、

持つこととあることとの間の選択を、彼らそれぞれの体系の

中心的な問題としてきた。仏陀は、人間の発達の最高段階に

到達するためには所有を渇望してはならないと教える。

イエスは説く。

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、

私のために命を失うものはそれを救うのである。

人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、

損なうなら、何の得があるだろうか」(ルカによる福音書9・24-25)。

マイスター・エックハルトは、

何も持たず自分を聞き<空虚>とすること、

自分の自我に邪魔されないことが、精神的な富と力を

達成するための条件であると教えた。

マルクスはぜいたくが貧乏に劣らず悪であること、

そして私たちの目的は多くあることでなければならず、

多く持つことであってはならないと教えた。

(私がここで言及しているのはラディカル・ヒューマニスト

としての真のマルクスであって、ソビエトの共産主義が

描き出している俗悪なにせものではない)。

 

長年にわたって私はこの区別を深く心に刻みつけ、

その経験的な基礎を求めて、精神分析の方法による

個人および集団の具体的な研究をおこなってきた。

私の見たものは私を次のような結論に導いた。

すなわち、この区別は生命への愛と死せるものへの

愛との間の区別とともに、存在の最も重大な問題としての

意味を持つこと、そして経験的・人類学的・精神分析的データは、

持つこととあることとは二つの基本的な存在様式であって、

そのそれぞれの強さが個人の性格やいろいろな型の

社会的性格の違いを決定する、ということを明らかにする

傾向を持つということである。


「人生の教師たち」として他、鈴木大拙、松尾芭蕉、ゲーテ、


イギリスの詩人テニソン、などが引き合いに出され、


禅の心のようなものを説かれる。


所有とは無縁な世界だからかなあ。


「第三部 新しい人間と新しい社会


1新しい人間」から抜粋


新しい社会の機能は、新しい<人間>の出現を促進することだが、

新しい<人間>とは次にあげる資質を示す

性格構造を持った存在である。

 

【1】

十全にあるために、あらゆる持つ形態を

進んで放棄しようとする意志。

【2】

安心感、アイデンティティの感覚、自信。それらの

基礎は自分のある姿であり、結びつき、関心、愛、

まわりの世界との連帯への要求であって、世界を持ち、所有し、

支配し、ひいては自分の所有物の奴隷になろうとする欲求ではない。

【3】

自分の外のいかなる人間も物も、人生に意味を

与えることはなく、このラディカルな独立と、物に執着しないことが、

思いやりと分かち合いに専心する最も十全な能動性の

条件になりうる、という事実の容認。

【4】

自分が今あるところに十全に存在すること。

【5】

貯蓄し、搾取することからでなく、与え、

分かち合うことからくる喜び。

【6】

生命のあらゆる現れへの愛と尊敬。それは物や力や

すべての死せるものではなく、生命とその成長に関係するす

べてのものが神聖である、という知識の中に見られる。

【7】

食欲・憎しみ、幻想をできる限り減らすように努めること。

【8】

偶像を崇拝することなく、幻想を抱くことなく生きること。

それはすでに幻想を必要としない状態に達しているからである。

【9】

愛の能力を、批判的で感傷的でない

思考の能力とともに、発達させること。

【10】

ナルシズムを捨て、人間存在に内在する

悲劇的限界を容認すること。

【11】

自己及び同胞の十全の成長を、

生の至高の目的とすること。

【12】

この目的に到達するためには、修行と現実の尊重が

必要であることを知っていること。

【13】

さらに、いかなる成長も、それが構造の中で

起こらなければ健全ではないことを知っていること。

しかしまた、生の属性としての構造と、

非ー生の、死せるものの属性としての

<秩序>との相違をも知っていること。

【14】

想像力を発達させること。

それも耐え難い環境を取り除く手段として。

【15】

他人をあざむかないこと、しかしまた他人からも

あざむかれないこと。無邪気とは言えるかもしれないが、

単純とは言えない。

【16】

自己を知っていること。自分が知っている

自己だけではなく、自分の知らない自己をも

ーー自分の知らないことについては、漠然とした知識しか

持たないかもしれないが。

【17】

自分がすべての生命と一体であることを知り、

その結果、自然を征服し、従え、搾取し、略奪し、破壊する

という目標を捨て、むしろ自然と協力するように努めること。

【18】

気ままではなく、自分自身になる可能性としての自由。

貧欲な欲求のかたまりとしてではなく、いつ何どきでも成長と衰退、

生と死との選択を迫られる微妙な均衡を保つ構造としての自由。

【19】

悪と破壊性とは、成長の失敗の必然的結果で

あることを知っていること。

【20】

これらすべての資質の完成に到達した人々は

少数にすぎないことを知っているが、<目的に到達する>野心は持たない。

そのような野心もまた貧欲の形態であり、

持つ形態であることを知っているから。

【21】

どこまで到達できるかは運命にゆだねて、

常に成長する生の過程に幸福を見いだすこと。というのは、

できるかぎり十全に生きることは、自分が何を達成するか

あるいはしないか、という懸念が増す機会を

ほとんど与えないほどの満足感をもたらすからである。


「新しい人間」という定義ですけど、当てはまるものもあればないものもあるし


そもそも「新しい人間」ってなんだよ!ってのもなくはない。


ニーチェの「超人」と近いのかな。よくわからないのだけど。


それにしても、本の題名、やっぱり気になるなー。


「生きるということ」なのか、これは。


でも以下の最後のところで、ああ、そういうことと納得したような。


「2新しい社会   一応の見込みはあるのか」 から抜粋


実際、有神論的宗教に真に根を下ろしていない人々にとっての決定的な問題は、

宗派もなく、教義も制度もヒューマニズム的<宗教性>、

すなわち仏陀からマルクスに至る非有神論的な宗教性の運動によって、

長年にわたって用意されてきた<宗教性>への改宗である。

私たちが直面しているのは、利己的な物質主義とキリスト教的な

神の概念の容認との間の選択ではない。

社会生活自体が

ーー

仕事における、余暇における、

個人的な関係における

そのあらゆる面において

ーー

<宗教的>精神の表現となり、独立した

宗教は必要でなくなるだろう。

新しい、非有神論的な、制度化されていない

<宗教性>へのこの要請、

現行の宗教への攻撃ではない。

しかしながら、それはローマの官僚制とともに始まった

ローマカトリック教会が、福音書の精神に

自らを改宗させなければならないということを、

確かに意味している。

それは<社会主義諸国>が<非社会主義化>すべきことを

意味するのではなく、彼らのまやかしの社会主義を真の

ヒューマニズム的社会主義に代えることを、意味するのである。

中世後期の文化が栄えたのは、人々が神の都の理想を

追い求めたからであった。近代社会が栄えたのは、

人々が地上の進歩の都の成長の理想によって、

励まされたからであった。しかしながら二十世紀において、

この理想はバベルの塔の理想にまで堕落した。

それは今や崩れ始め、最後にはすべての人をその廃墟に

埋めてしまうだろう。

もし神の都と地上の都が定位反定位であるとすれば、

新しい総合、すなわち中世後期の世界の

精神的核心と、ルネサンス以来の合理的思考と

科学の発達との総合が、

大混乱に代わる唯一の選択である。

この総合はあることの都なのである。


資本主義の是非を問うような情報に


触れる機会が多い昨今、


この本も同様に興味深かった。


しかし他と異なるのは、深すぎて自分には


若干分かりにくく壮大な内容だった。


今の時代にも響くように感じた。


まったくの余談だけど、エーリッヒさん(1900 - 1980)を


ガッカリさせてしまうかもしれないが思い出した言葉。


「所有させると君たちは


争うことしかしないから、我々の技術は教えない」


と言ったのはアダムスキー(1891 - 1965)が


UFO内で面会した金星の大使の言。


アダムスキーって真偽の程は定かじゃないけど、深いな。


所有について哲学する時代だったのかも、と思いを馳せる。


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