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「三島由紀夫」とはなにものだったのか:橋本治著(2005年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

  • 作者: 治, 橋本
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/10/28
  • メディア: 文庫

「第一章「豊饒の海」論 / 5 阿頼耶識(アーラヤしき)」から抜粋


三島由紀夫の「豊饒の海」は、日本の幻想文学の第一位に遇されるものだと思う。

「豊饒の海」は、途中からそうなるような方向へどんどん進む。

私は、「豊饒の海」を「日本の幻想文学の第一位」と称賛するが、

しかし、そう言われて三島由紀夫は決して喜ばないだろう。

なぜかと言えば、幻想文学になってしまうことは、三島由紀夫とっては”失敗”であるからだ。

これが幻想文学なら、「豊饒の海」を書き終えた三島由紀夫は自殺なんかする必要がない。

言うならば、三島由紀夫は「豊饒の海」を幻想文学にしないために自殺したのだ。


幻想文学がなんなのか、よくわからないから、


これには諸手挙げての同意はしかねるのだけど、


最期の行動は「豊饒の海」に、特別な意味を与えたかったのは間違いないだろう。


「第二章 同性愛を書かない作家 /1松枝清顕の接吻」 から抜粋


三島由紀夫に慣れて、私は自分の慣れたものが

三島由紀夫の「修辞(レトリック)」であって、

「論理(ロジック)」であるとは思わなかった。

彼の小説に「三島由紀夫の修辞(レトリック)」であるとは思わなかった。

彼の小説に「三島由紀夫の論理(ロジック)」を見る人は少ない。

つまり、多くの人は「彼はそう言っているだろう」とだけ思って、

「彼はそう信じているだろう」とは思わない。ということである。

しかし、三島由紀夫は「そう信じている」のである。

だからこそそれは、彼の修辞(レトリック)ではなく、彼の論理(ロジック)なのだ。

三島由紀夫の孤独と、彼に対する誤解もここに生まれるのだろう

とは思うが、「三島由紀夫」に慣れた後の私は、もう「春の雪」を

「言い訳の多い恋愛小説」だとは思わなかった。

その後に「豊饒の海」を2度読み返して、格別の不満も持たなかった。

そして時がたち、今回この原稿を書くために

もう一度旧版の三島由紀夫全集を読み返して、愕然とした。

今回私は、「禁色」を読み、「仮面の告白」を読み、

そして「豊饒の海」を読み返したのだが、「仮面の告白」から

直接に続けられた「春の雪」は、それまでとは全然違う表情を持っていた。

松枝清顕のためらいが「仮面の告白」の主人公「私」の

ためらいとまったく同質のものだったからである。


愕然としたのは、「豊饒の海」を書くとき瑞々しい感性だったからなのではないだろうか。


自分は「豊饒の海」って未だ読めない、質と量が凄すぎて。


「仮面の告白」「沈める滝」「金閣寺」「潮騒」はとても自然に読めたんだけど。


後から知ったけれど、それらは全て三島さん30歳ごろまでに書いたものだったのだね。


自分も若い頃だったから読めたのかもしれない。


「あとがき」から抜粋


この本を書くことは、私にとって、

「行かなくてもいい領域に一歩ずつ足を踏み入れる」ということだった。

もちろん、その「行かなくてもいい領域」は、欲望の領域なんかではない。

それは私にとって周知の事実だから、禁断もためらいもない。

三島由紀夫の内部に謎はない。

謎は、彼の外部と内部の接点ーそのためらいの不思議なややこしさにある。

だから私は「この人はなんで足を踏み出さないんだろう?」と思う。

「この人はなぜ、自分が進み出たところを”ないこと”にしてしまうんだろう?」

と、不思議に思う。

それはおそらく、三島由紀夫だけではないのだろうが、

そこに「文学の不思議」を思う私は、改めて「三島由紀夫と戦後」なるテーマに思いを馳せる。

それは私にとって、「なんでそんなことを考えなきゃいけないの?」

であることなのだが、多くの人にとって、「戦後」は、まだ決着の付いていない時代なのである。

だから「終わらせる」も必要なのかもしれない。

しかし、遠い昔に終わってしまっているものを、今更もう一度「終わらせる」もないもんだと思う。

だったら、いっそ考え方を変えて仕舞えばいいのである。

終わってしまった「戦後」という時代は、ろくな始まり方の出来なかった時代なのである。

そこで時代は混乱していて、それを承知していながら、

まともな一歩を踏み出すことが出来なかった。

戦後25年が過ぎた三島由紀夫の死は、ためらいの末に得られた不十分な一歩の上にあった。

だったら、そんな「戦後」は捨ててしまえばいいのである。

「戦後」は、始まらぬままに終わってしまった。

20世紀後半の日本の思想の沈滞はそこに原因していると、私は思う。

つまり、いつまでも死んだ子の齢(とし)を算(かぞ)えていても仕方がないということである。

(略)

「終わった」の言葉を「始まった」に置き換えれば良いのである。

(略)

「そうか、”ああ、終わった”じゃなくて、”さァ、始めるか”なのか」

と思って、私はようやくこの一冊を終えられる。


橋本さん、本を書いて爽快感がなかったという。


かなり大仕事だと思いますよ、三島由紀夫を


語るってことは。


「戦後」とか「日本」とかに


たどり着いてしまうものなあ、やっぱり。


微力なんだけど、自分が思うに、


三島由紀夫を考えるとき、


幼少期の生い立ちを抜きには語れない


ってのがきっとあるよね。


吉本隆明さんがどこかで語ってたけど、


三島さんのような育てられ方して


よく生きてられたな、みたいな。


吉本さん曰く1歳までの母親との関係が


大きく左右するという持論で、


三島さんは母親との関係を祖母が


奪ってしまったというのは有名な話で、


ここら辺は、なんか物凄くダークな領域


と言わざるを得ない。


お父さんの言いつけで大蔵省に就職した理由が、


お父さんが農林省に勤務されてて、


大蔵省のお方たちから蔑まされ


屈辱を味合わされていたから、


それを復讐するために大蔵省に入った。


しかも小説家を諦めてという。


(1年で退官されたそうだけど)


仕事の件とは関係ないかもしれないけど


お父さんを軽蔑していた祖母とか、


祖母と母との関係とか、


ものすごく暗く、辛い、触れたくない。


文学的才能とはあまり関係なさそうだけど、


そのルサンチマンからは逃れられない、とか。


研究し出すと、ものすごい労力使う。


余談だけど、あえて言わせてもらいますけど、


そんなの考えるより残された


小説の美しさを味わえる喜びを


感じた方が得策でございます。


(ってそれじゃ、この橋本さんの本読むなよ。)


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