坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記:横尾忠則著(2012年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
1975年のある日、横尾さんは横浜鶴見にある、
總持寺での若僧侶に心を打たれ、修行を決意、
6日間過ごした時の随筆から。
「禅に魅せられてー總持寺参禅」から抜粋
参禅はぼくにとってはじめての修行だった。
そのためか非常に緊張し、多分にストイックにもなっていた。
悟れるものなら悟りたいとも思っていた。
坐禅をすれば悟れると考える方が甘っちょろいわけだが、やっている時は本当に真剣だったのだから笑えない。
またこのような修行をしている自分が、不思議に頼もしく思えて、一人自己満足に酔っていた。
しかし、このような自己満足は逆にマイナスで、修行者がしばしば堕ち込む危険な罠であることもわかった。
次から次に浮かぶ煩悩(迷い、惑い、苦しみ、悩み、妄想など)との闘いがぼくの禅でもあった。
普段から煩悩とは思えないものまで煩悩と感じるわけだから、知らず知らず自分を見詰めることになる。
しんどいといえばしんどい話だ。
しかし煩悩の流出は毒素がでるようなものだから出た後は爽快だ。
禅寺での生活は全く日常離れしている。
何一つ頭を使うことなく、ただただ一生懸命に坐り、お経をあげ、掃除をし、また一生懸命ごはんを食べて、日が暮れると寝るのである。
健康といえばこれほど健康で、しかも自然な生活は他にないかもしれない。
禁欲的といえば禁欲的であるが、それはあくまでも物質的、あるいは快楽的なものに対しての禁欲で、人間が本来それほど必要としていないものにわれわれは執着して生きており、そして人間を病気に追いやっているのだろう。
日常生活の中で半病人的な生活を送っているわれわれにとっては、禅寺の生活は非常に単純で目的性がなく、ただ無意味で退屈なもののように映るかもしれない。
しかし考え方を変えればここはすべての欲望と誘惑から遮断された地上の楽園でもある。
目的も意味もなく生活することがどんなに解放されて楽しいかは禅寺に入ってみなければわからない。
(中略)
「阿含経」(小乗の根本聖典)の釈尊の教えに耳を貸すことができても、教えを実行することの難しさに加えて、ぼくは自分自身の矛盾と偽善性に、以前にもまして苦悩する日々が続いた。
この頃、ぼくはオカルトにも強い関心を抱いていた。
(中略)
超能力人間になりたいとさえ思ったのである。
そのためにサイキック(テレパシーなど)な訓練をしたり、ヨーガを習ったりもした。
しかしこのことがぼくにとってすごい欲望であることもわかっていた。
この欲望がある限りぼくがいくらあがいても超能力人間になれないと思った。
五欲、五蓋を離れることによって、その副産物として超能力を獲得するということも知った。
しかし、このような大それた目標をぼくの人生にとって何程に重要なのだろうかと、ふと考えることがあった。
それよりもっと重要なことは自分が「あたりまえ」であるということだとわかった。
今までのぼくは目覚めるためにかなりストイックでありすぎた。
そして、多くのこだわりからどうしても抜け出すことができなかったのだ。
オカルトやヨーガは一見非合理にみえるが非常に論理的である。
それに比較して禅はただ何も考えずに坐りなさい、そうすると悟れますと、いった具合に考えることを否定する。
だからぼくはどうしても禅が現代的ではないような気がしてあまり興味が持てなかったのである。
ところが参禅してぼくははじめて、禅の素晴らしさを知った。
悟ったという意味ではない。
理屈を超えてひとつひとつ体でいろんなことを教えられたのである。
禅に入れ込んでいた頃の横尾さん。
その後、1980年後半、
その頃ファッションデザイナーだった四方義朗さんの
テレビ番組に出演されて、坐禅のことを聞かれたら、
「あんなもんやめちゃった、何の意味もないから」
って、事もなげに仰っていた。
そしてさらに時流れて、2011年のこの本の
あとがきでは、さらに進化して。
「平凡社ライブラリー版へのあとがき(2011年)」から抜粋
そういえば禅は禅寺のみで坐禅修行するのではなく、日常生活の中で禅を実行するというのが禅の本来のあり方だという。
(中略)
ぼくは現在坐禅はしていない。
だけど禅寺の生活で体験した様々な知恵は、知らず知らずのうちに肉体の奥深くに浸透しているように思う。
例えば本文の中でも度々出てくるかもしれないけれど、「事実を事実としてみる」ということだ。
つまり「ありのままでいる」ということだ。
事実に余計な主観的な概念をくっつけてみないことである。
卑近な例を一つあげよう。
仮に満員電車の中で誰かに足を踏まれたとしよう。
見ると相手はどこかのオッサンだ。
謝りもしない。するとますます痛く感じる。
ところが相手がうら若き美人だったとする。そして「ごめんなさい」と謝られる。その瞬間痛みは消える。
そんな馬鹿なことはない、痛みは同じだ。
だけどオッサンと美人では格段の差がある。
何が事実かわからなくなる。こんな風に考え一つで事実が事実でなくなってしまう。
こういう時、禅は余計な概念を持ち込んではいけないという。
われわれの日常生活の中でも、このような現象は毎日起こっている。
そんな時、事実から目を離さないことだ。
事実に脚色を加えないで、事実はあくまで事実として見るべきだということを、言葉でなく、坐禅や作務(さむ)などの禅寺の生活の中で身体で感じさせていくのである。
学校や書物ではなく、そして言葉ではなく、すべて身体で感じさせていく。
つまり知識ではなく知恵である。
知識は半分は暗記した記憶だけれど、知恵は身体を通して感じ取る、個としての体験といえる。
知恵は一度身体を通過してしまうと、永久に忘れることはない。
(中略)
さあ、一生に一度ぐらいは禅寺に籠って坐禅でもしてみたら如何でしょうか。
この本の解説は田原総一郎さんで、氏曰く
「たしかに、観念ではなく身体を通して
理解するというのは大切なことだ」と。
うー、禅寺で坐禅かあ、その高みに行けそうにないなあ。
家(日常生活)で風呂上がりにする坐禅で、
しばし事足らそう。
このあとがきの最初で横尾さん、本文を
全く再読してないと高らかにおっしゃる。
書き直したくなるからだそうです。
本当は面倒くさいからではないか、と思ったりして。
余談だけど、ここで引用してないが、總持寺の参禅に
同行されてたのがお二人いらしたそう。
そのうちのお一人は、横尾さんとインドにも
行ってらした方で、
自分が若い頃だから90年初頭くらいデザイナーを
やってた頃、仕事をしたことのある方で。
ものすごくピュアで、さすが横尾さんといいたくなるような、
いい人にはいい人が、っていう、ご縁とか、つながりを
納得するようなキャラの方でございます。