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[その2] RYU’S 倶楽部「仲間」ではなく友人として:村上龍対談集(1997年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

蜷川幸雄(演出家)

僕は過激でいたい。微熱とかいうのは嫌なんです。

 

村上

僕、無謀になれるということが、今すごく贅沢なんじゃないかと思うんです。それはある種、直感を信じるということだと思う。

今は窮屈で、メソッドもいっぱいあるし、ここで無謀さを発揮するというのは、昔、唐十郎さんがやってたような頃よりも、うんと難しくなっていると思うんです。

それなのに、蜷川さんって、無謀だなって。

■蜷川■

僕、残り時間が少ないと思っているから、失うものがないと思ってやっているんですよ。たかだかあと三年だと思うんですよ、いいのは。そういう自然過程から逃れられないだろうというのが、一つ。

それから、今の女の人たちの持ってるすごいリアリズムを乗り越えるためには、無謀で、過激なロマンを持たないと越えられないということ。女性たちにロマンがないとは言いませんが、あの捨てるべきものは捨ててるふりをして現実をとる凄さを乗り越えるのはすごいことなんです。特におばさんね。

■村上■

すごいですよね、タフだし、情報たくさん持ってるし。

■蜷川■

だから、イギリスでシェークスピアをやるとかね。また今年も行くんですけど。真っ只中に飛び込むんで、格闘技をやるよりしょうがないなと今思っています。

(中略)

■村上■

すごく単純なんですけど、苦労して苦労して、時には通訳入れたりして、自分のテイストとか方法とか思いを伝えて、相手が「よし、わかった」と言った時のあのうれしさといったら、あれ、日本で味わうの、むずかしいですよね。

■蜷川■

そうですね。時にはそういう泡立つような恐怖の中で仕事をしないとダメですね。

■村上■

ダメです。ただ、実際にやっている人以外には死んでもわからないことですけどね。

結局不安だからよく考えるようになるし、自分で全く気がつかないうちに、言葉の組み合わせ方みたいなものが新しく生まれていたんだなと思いましたね。


三十年くらい前に東京グローブ座で観た


「近代能楽集(三島由紀夫作)」を


演出された二つの演目、


「邯鄲」「卒塔婆小町」はかなりショック、


というか単純に面白かった。


セリフとかいかにも三島由紀夫さんっぽくて。


同じ演目を友達が見たらしいけど、


今ひとつだったと言ってて


演出の凄さを感じたものでした。


石原慎太郎(作家)

日本にはまだ可能性はある。ただ、それを生かそうという文明意識がないんだな。

 

■村上■

僕の個人的な意見なんですけど、明治になって日本が目標にしたのは自国の通貨をとにかく強くしたいということだったと思うんです。

そのために富国強兵も、日本の中の制度の整備もあったと思うんだけど、1978年にちょうど円が二百円を切った時にその大目標が終わったと思ったんです。だから日本のそういう大目標が終わっちゃって、でもその事は誰も言わないし、次の新しい価値観を探してどうのこうのということもない。

要するに、それに向かって国民全体が大目標達成のために一丸となっているときは価値観が分かりやすかったと思うんです。男性的な価値観が浸透していって、働けば働くほど尊敬されるし、お父さんの権威も一応ある、みたいな。今、徹夜で働いても誰も尊敬されませんからね。

■石原■

じゃ、日本に可能性がないかっていったら、僕はまだまだあると思う。ただ、その可能性を日本人が発見、自覚できないのと、可能性を生かすためにシステムを変えようという、一種文明意識みたいなものが、役人にも政治家にも国民にもないんだね。

講演でもよくいうんだ、三年前「湾岸戦争白書」みたいなものを唐津一さんにもらって、そこに何が書いてあったかという話を。我々はこの戦争で石原があの本(NOと言える日本)でいったことが正しいと証明したと。

どんな圧力があったか知らないが「アメリカに関してだけは、戦略技術は日本から供与する」と中曽根さんが決めたんですよ。いくつかのアイテムがあって、アメリカはそれを受け取ってから湾岸戦争の準備を始めた。それはレーガンの頃です。軍拡競争で、アメリカはもうソビエトに勝ったという自覚があったから、次は軍事じゃなくエネルギーで世界を掌握しようとたくらんだ。サウジに駐在軍を置くために、どこかに戦争を起こさせる必要があったわけ、

日本はそのために金も出さされた。イラクが集めたODA(政府開発援助)の65%は日本の金だよ。

(中略)

あのピンポイント爆撃、有史以来初めて爆撃を可能にしたのは、日本から提供した半導体があったからだし、100キロで走りながらも、いったんスコープしたら視野から外れない特別のスコープを持っているのも日本の自衛隊の戦車だけなんです。それをアメリカに提供したんだよ。それを装備してソビエトの顧問が見守る中、M1戦車は一方的にソビエトのT72戦車に勝ったわけ。

アメリカは日本の技術のお陰で勝ったんですよ。ちゃんと認めているんだ、報告書のなかで。

軍事的なことだけじゃなくて、向こうの航空機のコンピューターだって日本の液晶体とセラミックがなかったら、出来上がらないんだ。

そういう関係を日本人が意識して、それを切り札にして交渉するという発想がない。まだまだ素晴らしい技術を持った中小企業がいっぱいあるのに、それが一向に融資を受けられないという金融状況もある。

それは役人、政治家に関係ない本当に利口な企業人がやっているんだ。日本の技術に関する感性とか執着というのは、ものすごく面白い。その技術にフォーカスして将来を考えたら、日本はまだまだ大丈夫だと思うね。


「お役所仕事」と一言で批判はできなけれど、


実際はそうなんだろうね。


そこを変えないとって。


しかし、戦争に間接的にでも


加担しているとなると見方が変わるよな。


経済力も奪われ、頭脳というか知恵も拝借され、


利用されてるのか、してるのか、


欧米と日本の関係って。


グローバルな時代なので一国の考え


というのは古いのかもしれないけれど。


渡辺真理(アナウンサー)

日本には本当の、感情論じゃない批判が、なかなかないですよね。

 

■村上■

8月に亡くなった丸山真男という日本の大知識人が、結局、戦時中に何が一番怖かったかというと「自分ではこれが正しいと思っているのに、99%の人間がまったくそれに気づいていなくて自分が孤立することほど怖いものはない」と言っていたんですよ。

あと、中上健二が死ぬ前に僕に「圧倒的な大勢の人たちに順応できなくてそれで差別されるということがどれだけ恐怖かというのが、お前にはきっとわからないだろう」と言ったんですけれども。

だから、ある状況で、そういう圧倒的な立場の人が何かを信じて、それに順応しないと迫害したり。それこそ被差別部落の人とか在日朝鮮人とかを完全に切り離して弾圧するとかいうのが、ものすごく機能しやすい国なんですよね。

■渡辺■

そうでしょうね。それは土壌なんでしょうか。だから本当の別にヒステリックな意味じゃない批判というのが、なかなかないですよね。

■村上■

すごいことですけど、個と個の話し合いってやつが存在しない国なんですよ。

■渡辺■

そうかもしれない。自分の反省を含めて、感情論になっていっちゃうんですよね。でもさっき「蓋をするのとスケープゴートがセットだよ」とおっしゃっていたことで連想したんですけれど、「言わぬが花」という言葉、取り違えたら怖いですよね。言葉としては好きな響きですけれど、解釈の仕方によっては何処か危うい。


山本容子(版画家)

これから残っていくのは体を使う人たちだけだろうな。

 

■村上■

日本の男にマザコンの男が増えているらしいですよ。ただそういう人って、きちんと子供時代を過ごしてないんじゃないかと思う。

■山本■

家の中にいろんな意見があった家ってのはよかったのよ。つまり大家族とか、近所があったとか。いろんな価値観の大人たちに囲まれてるとそれなりに成熟すると思うんだけど。一つに規範の中で、核家族みたいになって、母親とテレビが言っていることだけが正しいなんていう状況だと、多分そうなるよね。

■村上■

みんなが思っているより何十倍も生きにくい時代なんだな、と思って。

■山本■

私が一つだけ賭けているのは、これから残る人たちは体を使う人たちだけだろうなということなのね。体を使うことを覚えている人たちは絶対大丈夫だろうと思うんですよ。

■村上■

それはどうして?

■山本■

例えば、子供の頃は絵を描くのに、大人になると大体絵を描かなくなるでしょう。それは教育が悪くて、いい絵を描かなきゃっていうプレッシャーが出てくるからなのね。泥んこ遊びで体が覚えている興奮とか快感みたいないい部分だけをだんだんそぎ落としていっちゃって、どんどん観念的になっていくんですね。

ああいう身体性というか、昔持っていた、体を使いながら、ヘトヘトになりながら、でも工夫があって、発見があってという、そういうものがずっとある人が、美術を続けているんですね。美術というものがジャンルで残っていても、これがなければ絶対続かないと思うの。

今、絵がみんなから遠ざかっているのは、「勉強しなきゃ分かりません」みたいなことがあるからでしょう。観念ばっかりで体を使わないからそうなっちゃう。

それに、視覚って一番鈍感でしょう。「この絵とこの絵の組み合わせが嫌い」と思っても、見慣れていれば何も言わなくなる。でも、聴覚はうるさかったら「うるさーい」って反応するし、味覚だったら不味かったら「まずい」っていうもの。

(中略)

■山本■

この間、ラスコーに洞窟壁画を見に行ったの。普段は閉鎖されてて、一日5人しか入れないですよ。申し込んでから1年、やっと文化省からOKが来て行かねば!って行って見てきたんです。教科書なんかで馬とかバイソンとか描いてあるのは知ってるけど、現場の状況がわからないじゃない。そこは丘の中腹から20メートルくらい下りたところにあるんだけれど、入り口から15メートルくらい進んだところに有名な「雄牛の間」というのはあって20メートル四方くらいのポコーンとした部屋なの。

で、びっくりしたのが、あのバイソンっていうのが2頭バーンと向かい合っているんだけれど、一頭五メートルぐらいあるんですよ。そのスケールがすごい。その時にやっと、彼らは体を使って描いたなという感じがしたの。今だとこんなに光線もあるし、私に五メートルの牛を描けって言われたらなんとかして描くけれど、あの時代にまさかプロジェクターもないし、難しいと思うんだよね。で、壁なんか穴が掘ってあるの。

■村上■

そこに木を渡して、登って描いたと。

■山本■

(うなずいて)そういうのを見るとものすごく安心したの。大体紀元前二万年前くらいのものじゃない。文明は進化したけど、文化に対する人の創意工夫とか、描こうという意志は何も変わってないなあ、って。

もしかしたら、創意とか意志は今の方がもっと落ちているかもしれない。つまり「昔の人間の方が稚拙で、道具も教育もなかったからうまく描けていない。今の方がいろんなことを知っているから上手」って考えはものすごい間違いね。

■村上■

描くのが楽しかったんだよ。もっと言うと、二万年前にはキリスト教もないし、夜の闇も水害も怖いし、でかい動物が襲ってくることもある。そういうすっごい怖いことを、描いている時は忘れてたと思うね。夢中になって楽しいからそういうのって、変わってないですよ、今も。

■山本■

だからやっぱり体使って楽しんガアッとやってるんですよ。見ると、そのエネルギーがくるのね。ちゃんと遊びがあるし、考えていることは同じなんですね。

■村上■

それは仕事だよね。みんな仕事って言うとそれでお金もらうことだと思うけど、そういうんじゃなくて。事に仕えるということだよ。趣味とか余暇じゃないんですよ。

■山本■

充実感というところにつながっていくよね。趣味だとか何かだと、充実感じゃないんだよね。

■村上■

それは時間つぶし。

■山本■

それには絶対批評が入り込まないから、それはただの暇つぶし。見せるために描いているのではないかもしれないけど、人に見せて意見が出た時に初めて「よしもっと頑張っちゃおう」みたいな感じが大事ね。

■村上■

他者というのが存在してないと工夫しないもんね。


山本容子さんとの対談が一番面白かった。


自分も絵を描いたりして今描かないからかな。


中森明夫(コラムニスト)

「豊かさ幻想」の余波の中で女子高生は寂しいポップに至っている。

 

■中森■

ものがありすぎて寂しいみたいな感覚、というんですかね。そういうのは初めてだと思うんですよ。

■村上■

有史以来ですよね。

■中森■

日本の近代って変な形で近代化しちゃってる。関ヶ原の戦い以降戦いがなくて、テロもクーデターもほとんどないし、大体外圧で変わっているわけでしょう。

■村上■

大体じゃなくて、全部です。

■中森■

豊かになればいいんだ、ってやってきたと思うけど、誰ももう一回バブルが来るとは思ってないし。かといって神との契約もないし、自分を律する価値観は何もないんです。でも何となくそれ以上はないということで第二次世界大戦以降、何度か作り直してきた「豊かさ幻想」の続いている余波みたいなところで生きていくしかない。そこに女子高生が生きていて、さっきいった寂しいポップに至っているという感じがしている。

それともう一つ思うのは、村上さんの場合、20年間小説をやってこられて、九十年代に入ってからは「トパーズ」「KYOKO」「ラブ&ポップ」と女の人を主人公にしているのが多いような気がするんだけど、それは考えるところがあってですか。

■村上■

主人公が決断して行かないと、ドラマにならないんですよ。その決断には非常に普遍性が必要です。今決断して生きているのは女性なんです。

今の男は普通、決断のしようがないですからね。例えば「サラリーマン辞めて長野にペンションを作る」っていうのも別に決断じゃないんだもの。選択肢の一つであって。今、男にとって唯一の決断といえば、メジャーに行こうとするプロ野球の選手だけじゃないですか。

(中略)

男の決断というのはロジカルじゃなくて、商業的です。尊敬できるわけがない。


近代が外圧じゃないと変わらないってのは、


三島由紀夫さんも指摘されてた。


「なんで日本に革命が起こらないのか、明治維新だって黒船が来ないと起きなかったでしょう」


とか。


そして最後に「あとがき」から抜粋。


これがいちばんシビレました。


 当時わたしは映画「KYOKO」の撮影をアメリカ東海岸とキューバで終えたばかりで、その体験をもとに日本について考えていました。

その結果、「日本はこんなにつまらない」というサブタイトルをつけたわけですが、現在あの頃と考え方が少し変わってきています。

今、「日本は」とか、「日本人は」という言い方をいっさい止めようと決めたところです。

日本全体のことや、モデルとしての日本人像などについて、考えを巡らすのは間違っていると思うようになりました。

「わたし」や「あなた」という、「個人」に基づいた最小の関係性の中に、どうやって価値を見い出していくか、ということの方が日本のことを考えるよりはるかに重要なことだと思います。

たとえば、女子中高生の援助交際については、「これから日本はどう対処するのか」ではなく、「自分の娘や妹や姪や孫がやっていたとして、自分は彼女たちに対してどういう言葉を持っているか」というふうに考えるべきだと思います。

この国の「システム」は個人のプライドを支える力をとっくに失っています。

「仲間」を求めて群れを目指す生き方は、自分の手に余るシリアスなトラウマを抱え、「緊急の救助」が必要な場合を除いて、もはやいかなる意味でも有効ではありません。

「友人」というのは「仲間」と違って、群れるわけではなく、いつもいつも一緒にいる必要もなく、お互いの仕事を暖かく見守りながら「元気だった?」と再会を喜び、語り合う、そういうものです。

この単行本のタイトルは、そういう意味を込めました。


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