東京ファイティングキッズ:平川克美・内田樹著(2004年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
平川・内田さんたち(1950年生まれ)が、
往復書簡の態で自分たちの生きてきた時代や
人生を振り返りつつ、受けた影響など
脱線しながら語る書。
話が「知性」に言及。
その流れで平川さんの返信。
■平川克美 「往相と還相」 から抜粋
こういった問題を自覚的に取り出して、見事に分析したのは吉本隆明でした。
カール・マルクスや親鸞を論じるにあたって、彼は次のような前提を記しました。
要約するとこうなります。
「知識については関与せずに生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与した人間には価値があり、なみはずれて関与したものは、なみはずれて価値があるというようにひとびとが幻想をすることは、自然なことであるが、これはあくまでも幻想の領域に属していることだ。
幻想の領域から現実の領域へとはせくだってくると、この判断はなりたたない。
市井の片隅に生き死にした人間のほうが、判断の蓄積や体験の重さに関して単純でも劣っているわけでもない。
1000年に一度しか現れない巨匠と、市井の片隅で生き死にする無数の大衆のこの「等しさ」を歴史は一つの時代性として描き出す」
吉本のこういった認識に最初触れたとき、まさに目からうろこが落ちたわけです。
今でもぼくは吉本のこのような認識や、幻想論は見事な思想的な到達であると思っています。
ここでは「たいしたもんだね」は、簡単に「偉そうなことを言ったって、それが何に役に立つんだよ」といった知への侮蔑に転化する可能性を残しています。
親鸞はそういったところで、もう一度「愚者」というものをどうやってとらえるのかという課題を自らに課してそれを実践していく。これを「還相」という仏教概念で説明しているわけです。
現代風にいえば、コンスタティブ(事実確認的)な態度とパフォーマティブ(行為遂行的)な態度という背反する課題をどのように超えてゆくのかということになります。
(中略)
ひとまず、ぼくたちがたどり着いた場所が「知性は知性そのものの限界を知るという場所で最も指南力を発揮できる」「現実はその背後に起源に対する考察や、採用されなかった理論や、運動を捉えようとする努力というものがただ一つの歴史性として表出される他はない」といったところであろうと思います。
これをぼくは「自己否定の契機」と言い、ウチダ君は「自己の知性の限界への配慮」という言葉で説明しようとしたのだと思います。
かつて、ぼくは言葉というものは、言葉が通じないところでしか鍛えることができないと書きました。
知性ということに対しても同じことを言っておきたいと思います。
その後、色々さまざまな考察を経て「老い」に言及。
■内田樹 「老いとなじむ」 から抜粋
視力も衰えるし、歯もガタガタになるし、足腰のバネも効かなくなるし、お酒も弱くなるし。
それは「それ」ですよ。やっぱり。それを「治そう」としたら、それこそサイボーグ化するしかありません。
人間の身体のシステムというのは、自然とそうなっているわけですから、老いるということは、天然自然の理にかなっていることなんです。
老いてはじめて経験できるものがあり、病んでみてはじめてわかる愉悦があり、死が近づくことではじめて発見される美しさがある。そういうふうに考え方を切り替えたら、なんだか気分が楽になりました。
死ぬことって、子供の時はすごく怖いじゃないですか。
小学校のころまで「死」というものは概念としてまだ把握されていないけれど、それがあるとき突然想像可能になる。
自分もいつか死ぬということを想像できるようになったとき、ものすごい恐怖を味わいました。
これは本当に底なしの存在論的恐怖でしたね。
(中略)
人間は死ぬから「生きる」ということの意味やありがたみや愉悦がわかるわけです。
不老不死の存在者が仮にいたとしても、その人には死の恐怖や老いの苦しみがない代わりに、生きていることの幸福もおそらく想像できないでしょう。
(中略)
人間が人間であるのは、人間の世界の「外側」を「知らない」からであり、「知らない」ということを「知っている」限りにおいてです。
というようなことを四十路を過ぎてからぼちぼち分かってきました。
「そういうこと」って若いときには分からないですよね。
若い時って、「存在する」ことが自明であって、それを植民地主義的に全宇宙に拡大しようとしているわけですからね。
「生きることに意味がない」というようなことを主張する方々だって、その主張を全世界のみなさんに傾聴してもらおうとずいぶん熱心に走り回るものですからね。
その後、また内田さん、
お兄さんが会社の採用人事で、
応募者全てに対応できないから、
取得している資格や点数で
まず選考したってことから考えを巡らせ、
教鞭を取られている内田さんならでは意見。
(養老先生もご指摘されてたけど)
■内田樹 「データの時代」から抜粋
もし会社や組織の上司が部下の能力を適切に把握していて「あ、ヤマダくんはできるね。目配りがいいわ」とか「あのスズキつうのはあかんわ。あれは使えん」ということについての暗黙の合意ができている場合は、学歴やら資格やら点数やらは元より不要のものです。
しかし当今の使用者たちはそのような人間能力の総合的な判断能力がかなり低下してきているのではないでしょうか?
ですから「ヤマダはスズキより優秀である」という考課を上司が行なった場合の説明責任を求められたとき、それをきちんと語ることができない。
でも例えばヤマダがスズキの持っていない資格を持っているとか検定の点数がスズキより上であるという「誰が眼にも明らか」なデータが示される場合は説明が楽になる。
逆に、学歴も資格も検定もスズキに劣るヤマダを「でも、仕事はできる」というふうに自信をもって考課することが今どきの上司たちにはだんだんできなくなっているのではないでしょうか?
学生たちを見ていると、とにかく「資格、資格」と奔走しています。
(中略)
世の中の考課システムが機能不全に陥ってきたということではないでしょうか?
若い医者たちが問診で患者の健康状態や遺伝子疾患やパーソナルヒストリーを聞き出す能力が落ちてしまったために、やむなく検査漬けにしてデジタルデータを欲しがるのと、よく似ています。
誰にでもわかる「数値」を人間的価値の指標に取ることが推奨される時代というのは、人間の「中身」についての判定(それは久しく「その場にいる全員にとっての暗黙の了解」でした)が怪しくなってきた時代だということだと思います。
これまで人間についての判断の根拠になってきたのは「データ」ではなく、むしろ「逸話」です。
(中略)
「データ」の時代というのは、実は「物語」が死に瀕している時代なのかもしれません。
「物語」はかなり複雑な情報を扱うことができます。
「物語」の厚みの違いによって、あるいは読み手の「読み込み」の深さに応じて、そこから汲み出すことができる情報の量も質も大きく変化するからです。
(中略)
「データ」には厚みも深さもありません。そんなものあっては困ります。誰がどういうふうに読んでいってもいつでも同じ情報を伝えること、それが「データ」の条件ですから。
資格は学生だけでなく、中高年も同じですよね。
今の世の中、資格がないと
一次面接すらしてくれない現状ですから。
採用についてですが、考課システムの劣化も
あるでしょうが、現場のリスクヘッジなんですよね。
もし入社した後でうまくいかなかった場合、
上や下にどのように説明すればいいのかとか。
槍玉として突き上げられたくないという不安。
ただ目立たず漂っていたいという
非クリエイティブなやるせなさ。
みんながみんなって訳ではもちろんないですよ。
かつ、今となっては自分もその要素が
あったのかさえ分かりかねますけれども。
でも会社員時代、採用にも何度か立ち会ったので
なんとなくわかるんだけど、現場って
リスクヘッジばかり憂慮してますからね。
それのことを指してるのか、同じことを
言ってる気がしてきた。
余談だけれど、「平川さん」「内田さん」の
言葉の質とか知識の膨大さって凄まじい。
これに音楽面で多分それと拮抗しうる「石川さん」と、
「大瀧詠一さん」の対談が面白くないわけないよ。
ラジオデイズ、いつも聞きちゃうんだよなー、
テーマが普遍的だから。