クーン博士の難解な”構造”の周りを読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
50周年記念版に寄せて
イアン・ハッキング
から抜粋
古典的名著といえる本は、そうそうあるものではない。
本書はそんな名著のひとつだ。
読めばそれとわかるだろう。
この序説は飛ばして読み始めるといい。
今から半世紀前に、本書がいかにして生まれたのか、本書の影響はどのようなものだったか、本書に主張されていることを巡ってどんな論争の嵐が吹き荒れたのかを知りたくなったら、ここに戻ってくればいい。
今日における本書の位置付けについて、ベテランの意見が聞きたくなったら、戻ってきてほしい。
ここに述べることは本書の紹介であって、クーンと彼のライフワークを紹介するものではない。
クーンはつねづね本書のことを『構造』と呼んでいたし、会話の中ではただ「例の本(the book)」と言っていた。
私は彼の使い方に倣うことにする。
『本質的緊張』は、『構造』の刊行直前か、またはその後まもなく発表された哲学的な(ここでは哲学的を、歴史的に対する言葉として使っている)論文を集めたもので、たいへん参考になる。
そこに収められた論文はいずれも、『構造』への注釈、ないしその拡張とみなすことができるので、併読するにはもってこいだ。
ひとつ、あまり語られていないことがある。
あらゆる古典的名著がそうであるように、本書は情熱のなせるわざでもあり、ものごとを正しく理解したいというひたむきな願望の表れだということだ。
第1節序論冒頭の控えめな一文からさえ、そのことははっきりと見て取れる。
「歴史は、もしもそれを逸話や年代記以上のものが収められた宝庫とみなすなら、現在われわれの頭にこびりついている科学のイメージに、決定的な変化を引き起こすことができるだろう」。
トマス・クーンは、科学についてのーーーすなわち、良きにつけ悪きにつけ、人類がこの惑星を支配することを可能にした活動についてのーーわれわれの認識を変えようとした。
そして彼はそれに成功したのである。
訳者あとがき から抜粋
周知の通り、単行本としての『科学革命の構造』は1962年にシカゴ大学出版会から原書が刊行されたあと、1971年に中山茂訳の日本語版がみすず書房から刊行され、以来日本でも半世紀以上にわたって広く読まれてきた。
『科学革命の構造』の内容は第二版の刊行を持って定まり、第三版では本文の改定はなされなかった。
しかしクーンの没後、2012年に刊行された原著第六版は、刊行50周年を記念してイアン・ハッキングによる序説を巻頭に収録し、これからの読者に向けて装いを新たにするものとなった。
ハッキングの序説ではクーンのこの著作によって広められた「パラダイム」「通約不可能生」「通常科学」などをはじめとする重要語・概念について、今日的な視点からの解説がなされ、その意義が歴史的に位置付けられている。
ハッキングは自分の序説を飛ばして読みはじめるようアドバイスしているが、『科学革命の構造』がどういうものかをあまり知らずに読みはじめる人にはとりわけ、今回追加された序説は良い手引きになるだろう。
2022年11月 青木薫
青木先生ご指摘のように、読んだほうが良い
ハッキンスさんの序説は
CDでいえば、質の高いライナーノーツのようで
当時の世相や社会状況、この書の生まれる時代背景等
書かれていてクーン先生のことをイメージしやすい
って、ライナーノーツはねえだろう、例えとして
って思っております。
肝心の中身は難しすぎてわからないところが
多かったが、単語や人名等ひっかかるものがあり
機会があれば、ないかもだけど改めたい所存です。
ちとこれは高いハードルすぎるのかもしれない。
余談だけれど、日本版の本の装丁のデザインが
とても良いと思った次第でございます。
それにしても低気圧だからなのか頭が痛い
自然と身体の関係という構造を感じざるを
得ない平日の休日の午前中でございました。
柴谷篤弘先生の2冊から”差別論”の変遷を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 作者: 柴谷 篤弘
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 1989/10/01
- メディア: 単行本
から抜粋
天皇制をはじめ、いろいろな社会の制度、あるいは疑制度に対する反対運動が、目につくようになってきた。
私はいま外国にいて、この種の話を外国語で論ぜねばならない。
そのときには、天皇制反対のことを言うには、アンチ・モナーキストといった表現をとっている。
モナークはすなわち君主、王者である。
こういった国際的な表現をとると、ただちに、それではレパプリカン、共和主義なのか?ということになってくる。
日本の天皇制反対論には、反対・批判はあるが、それでは、どういう対策があるのか、という点について、はっきりと出されなかった。
昭和天皇がなくなって、はじめて、新しい憲法草案などを試みる人々もではじめたようだ。
私なりの結論を手短かにいうならば、ともすれば絶望的な無力感にとらわれがちな、世のなかで「おちこぼれ」を強制されてきた人々、単に被差別部落の人々だけに限らず、登校拒否、帰国子女といわれる人々をふくめ、その人たちが加わって、生活し、動いてゆくための受け皿を、どのようにしてつくりだしてゆくか、を考えてみたいのである。
私自身、一種のおちこぼれであることは、すくなくとも本人にとっては、ずっといつもはっきりしていた。
それで、いまでもどうかして科学者の権力構造の世界にまぎれこむと、人々が私にたいして好意的にいってくれる紹介の文句は、「分子生物学の草分け」というものである。
いわば私の昔のことで、今はもうなんでもない、つまりは権力コースからのおちこぼれであることを、はっきりいったものだ。
この状況はもう20年ちかく続いている。
ところが、1988年にそれまで勤めていた大学を定年退職して、ベルリンにやってくるまで、半年のあいだフリーでいた。
その時に、ジャーナリズムでの用語をみならって、「フリーランスの科学者」という表現をおもいついて、それを使うことにした。
ベルリンに来てみると、そんなことが、おもいがけず新鮮にひびくらしいことに、気づくようになった。
「いかにもラジカルな表現だ」、と若い科学者からおだてられさえした。
いってみれば、毎日いい調子で暮らしているような私ではあるが、それなりに、おちこぼれには徹するようにこころがけているわけで、それは、はたで見ていれば、すぐそれとわかるようである。
そういう立場で、ひとつ民間のおちこぼれグループ、NGO連合の理論を考えてみようということで、この本を書いたわけである。
1 差別への私の関心の由来
1 生物学をやりながらから抜粋
1989年なかばの日本で、反差別、とくにいわゆる「部落差別」の問題について、いわば専門外の私が意見を出そうとしている。
それには二つの理由がある。
第一に、現在日本が、経済大国として成功しているということがある。
その理由の一つは、国民の等質性なり、人々の間の「和」であるともいいなされる。
その時に、いわれのない差別(例えば「部落」差別)をなくし、「同和」の理想を達成するということはなんなのか、それを問題にしたい。
第二に、いわゆる「部落」差別と、そのほかのいろいろの差別とのあいだの、相互に織りなされる関係のからみ合いについて、色々と考えてみたい。
どうして、生物学をやっている私が、このような問題に自分を巻き込んでゆくのか。
その理由は、それなりに長い。
そういう生物学のこまかいことは、どちらでもいい。
要は、私はいつも自分を少数派として規定するように、自分自身を追い込んできた。
それが「好き」なのだ、といわれればしかたがない。
もう一つの動機は、私がオーストラリアにいて、いわゆる多元主義というものに、身近に触れたことと関係しているだろう。
それとともに1969年頃からずっとやってきた科学批判のいとなみを通じて、いわゆるリバータリアン・ソシアリズムという政治的な信条に、自然とはいりこみ、それにもとづいて、かってに自分では「ネオ・アナーキズム」と僭称している考え方を築こうとしてきたこととも関係があるようだ。
エピローグから抜粋
これは私が1985年にオーストラリアから日本に帰ってきて、はじめて自分で書いた本である。
それは1984年に出したものから、実に5年ぶりの仕事であった。
この本はまた、私にとってはじめて、ワープロにとり、あるいはじかにワープロに打ち込んで、仕上げたものである。
当然、文体その他にいろいろな影響が出たと思われる。
それに、3月に大学をやめて、10月にはベルリンの研究所にうつる予定であったので、実はあまり時間がなかった。
書名の『反差別論』は、私の前著『反科学論』とおなじく、”反差別 - 論”と”反 - 差別論”の二重の意味を含ませた。
後者はもちろん、「差別論」を新しい観点から再編成しようという意図をこめた表現である。
1989年7月 ベルリン出発・帰国を前にして
すごく読みずらかった。申し訳ございません。
この10年くらい後に出版された以下の書の方が
言葉が今と同じようなフィーリングもしたし
柴谷先生もパコソンと脳と手が
ひとつになったかのようなわかりやすさだった。
もしかして時流も味方したのかもしれない。
比較サベツ論 (明石ライブラリー) (明石ライブラリー 3)
- 作者: 柴谷 篤弘
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 1998/01/30
- メディア: 単行本
1 表現者の責任 から抜粋
1989年に明石書店から『反差別論』を出したあと、私はいくども、生物学者として「差別」の問題に興味を持ったのはなぜか、ということをたずねられた。
そのことを一応、そのあとで同じ出版社から出した『科学批判から差別批判へ』(1991)という本で説明した。
その本の中で、私が生物学者のなかの少数者として「構造主義生物学」を提唱した、という歴史的事実と、私の「反サベツ論者」としてのいとなみを、順列・並列にむすびあわせてみた。
しかしそのあと、1996年になって、私が構造主義にかかわりあうよりもずっと以前に、生物学の学生・新卒業生として、研究生活に向かってからのことを、「ある分子生物学者の回想録」というかたちで朝日新聞者から出版することができた。
題して『われわれにとって革命とは何か』。
ただしこの本では、書名の示す主題のせいぜい前半あるいは三分の一くらいまでしか書くことができなかった。
この段階で、私がここで新しいサベツ論の本を書き始めるにあたり、もう一度私がなぜサベツの問題に関心を持つようになったかを書くことから始めよう。
ただし『われわれにとって革命とは何か』のあとがきで、私は、回想録というのは要するに自己正当化でしかない、ということを自戒として書き込んだ。
だからここで、私の反サベツ理論への踏み込みをうながした世俗的な経過については書きとめることができても、無意識をふくむ内面の問題にまでふみこんで書くための心の準備は、これを書き始めている現在まだ完了していないようだ。
終わりの章から抜粋
サベツを受けるものは、少数者とは限らない。
権力関係における弱者が、多数であれ、少数であれ、サベツを受ける。
伝統的な人類諸文化の少なくとも大部分から近代人類文明までを貫通して、女性サベツを具現化させてきた権力の構造。
権力を持つものは、世界の人々を二種類に分けて、その区別の境界の内と外を区別するのに、自分の利益を標準にして線引きをしていた。
その線の内側にいるものが「まとも」で、外側にいるものは「まともでない」か、せいぜい二級品にとどまる、とされた。
このようにして、男性=人間の社会から女性がまず排除された。
その支配のもとで確立された強制的異性愛原理から、同性愛そのほかの性的指向における少数者や、性労働者が線の外に排除された。
このようにして確立された「性別二元論」による区分と、それに直角に交わる異性愛/同性愛区分の両方に対して、さらに横断的に、「クィア」あるいは「周辺問題」として、国家・社会や民族の生産性にはほとんど関わらない少数者・弱者がいる。
老人の性、子どもの性、S/M、性の同一性障碍などは、こうして線の外側に追いやられた。
これらは、財貨と性的身体の生産性を性支配原理によって管理する上での、避けられない「不純な付随物」として生ずる。
これらの不純物に身をもって関わることは、性労働や性産業に従事することとともに、「健全な」社会と文化のなかで倫理的に問題があり、人間の品性としても「下劣」「低位」なものとして、汚名を着せられることになった。
しかしこのようにして、社会への抵抗の原理が発見されることを、これまでの分析は少しづつ明らかにしてきた。
このようなたたかいにおける被サベツ集団は、障碍者集団をふくめて、「社会の生産・再生産の管理体系の中でのサベツの対象」として、ひとまとめにすることができる、と思われる。
現代におけるサベツの問題は、なによりもまず、すべてのサベツされている集団について、なぜ社会にサベツが起こるのかを明らかにする努力を、一層強めてゆかねばならぬ。
柴谷先生のこの指摘はかなり早いと感じた。
構造主義生物学を研究されていると
サベツの無意味さを痛感されていたのかな
と思ったりもさせていただきましたり。
それにしてもただいま現在も、政治の世界など、
喧々諤々やってますよな、古い価値観側からの
ポロッとしたものなど。時代遅れなのだろうな。
とはいえ、自分も新しい価値観です、
と言えるほど、現代人をやっているわけではなく
昭和人であるなあと実感することしきり、
そのあと勉強してみたりして、納得したり。
今を生きるわれわれにとって「サベツ」は
あまり馴染みないことと思いきや実は
昔と形を変えて生き延びているような気も
時折する夜勤前のバスでの読書でしたが
シビアな内容すぎてなかなか進まなかったことを
ご報告させていただきます。
2冊から中垣通先生の”新しい知”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
ネットとリアルのあいだ: 生きるための情報学 (ちくまプリマー新書 123)
- 作者: 西垣 通
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 新書
アトム化する個人
から抜粋
チャップリンが1930年代につくった映画「モダン・タイムス」は、産業革命によって傷つけられる人間の尊厳というヒューマンなテーマを扱った。
工場で朝から晩までネジを回している人間は、やがて歯車のような存在にされてしまう。
ではIT革命は何をもたらすのか?
それは「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」である。
少なくとも現代はその方向に走っている。
メガマシンには次のような前提がある。
人間は企業とおなじく、利益の最大化をもとめて合理的行動を行う機械単位だ。
こうして、人間は一群の数値データに還元されてしまう。
つまり、ITの処理対象となっていくのである。
もちろんこれは、資本主義社会の特徴であって、豊かな消費生活をおくるためには仕方がないと割り切ることはできるだろう。
評価数値をあげようとして、組織や人間が努力すること自体は悪いことではない。
しかし問題は、ITの急激な発達によって、組織や人間を評価する数値データが際限なく
増え続けるだけでなく、その変動速度がおそろしく大きくなっていることである。
投機マネーや政治情勢によって市場はつねに揺れ、およそ安定にはほど遠い。
要するに、市場が数値で押し付けてくる「客観的リアル」そのものが、大してあてにならないのだ。
具体的にはたとえば、少々偏差値のたかい大学卒の肩書など、幾度か職場を変わればほとんど就職や昇進の役にたたないのである。
身体的・言語的な「私のリアル」が消失し、空っぽになった自分を感じる時ふと、ネットのなかのアバター(キャラクター)への変身願望が出てこないだろうか。
これを”壊す”ととるか”脱皮”ととるかで
対処法やその後の展開は変わるのだろう。
脱皮とするのは養老先生関わる”メタバース”とかか。
”壊す”はあまり想像つかない。
あとがき から
この本は、ネットの発達した情報社会のなかで、どうしようもなくウツ気分に沈みがちな人たちのために書き下ろした。
筆者自身、特にペシミストではないつもりだが、ウツ気分におそわれることがすくなくない。
現代はいうまでもなく、デジタルな情報がとびかう便利な情報社会である。
だがそこでは、「人間の機械部部品」「人間の情報処理単位化」が猛烈なスピードですすんでいるのではないか。
またそういう自分に倒錯的快楽をおぼえる人も増えてきた。
人間が取り替えのきく機械部品とみなされるとき、自由だの平等だのといったお題目を唱えても虚しいのである。
これは、一部の強者が多くの弱者を抑圧するという昔ながらの問題ではない。
万人を抑圧し、万人をロボットやサイボーグに変えていくという新たな問題なのだ。
20世紀の知のありかた自体の中に、そういう方向性があるのである。
具体的には、意識、合理性、客観的な論理を何より重視する知が、世界を支配してきた。
急速なIT(情報技術)の発展と、これによる社会の効率化はその象徴である。
その有用性自体を否定するつもりはない。
だが一方で、悲鳴をあげているのは「生命」そのものだ。
生物は、無意識、非合理的な直感、身体で突き動かす情動や感情と共に生きているのである。
それらがリアリティを支えている。
人間も生物である以上は、それらを根こそぎ奪われたらどうなるだろうか。
そのあたりを真剣に考えずに、経済発展のためだけにIT立国をとなえるなら、日本列島はますますウツ気分の暗雲におおわれていくだろう。
生物は、無意識、非合理的な直感、身体で
突き動かす情動や感情があるのだというのが
今は手薄になっているような、現代社会。
この指摘は鋭いと思うか、当たり前じゃんと
思うかで意見は分かれるだろうが
もちろん自分は前者でございます。
まえがき から抜粋
「知とは何か」という問いかけは、決して、暇つぶしのペダンティックな質問などではない。
むしろ、命がけの生の実践に関わる問いかけなのだ。
それを象徴するのが、2012年10月、イタリアで地震予知を失敗した学者たちにくだされた禁錮6年の実刑判決だった。
この判決に対しては、世界中の自身学者はじめ、多くの人々から抗議の声が沸き起こった。
科学者の発言責任が刑事罰で問われれば自由な議論ができなくなり、ひいては科学の発達が妨げられるというものである。
だが、犠牲者の遺族達はこの判決を歓迎したという。
科学的議論は自由であるべきだというのは近代の原則だとしても、専門家の発言が権威を持ち、人々の運命を左右する影響力を及ぼすとき、そこに責任は生じないのか。
そんな感想が出てきても不思議ではない。
これは海の向こうの話ではないのだ。
3.11東日本大震災、そして直後の原発事故に関連して、同様の思いをいだいた人は少なくないだろう。
つまり、「専門家の権威」に対する一般の人々の信頼がゆらいでいるのである。
かわりに注目されているのが、一般の人々の意見を集める「集合知」である。
とりわけ、ウェブ2.0が登場して誰でもネットで発言できるようになって以来、「ネット集合知」への期待が高まっている。
高学歴社会のいま、これは魅力的な仮説である。
ネット集合知は、21世紀IT(情報技術)のもっとも重要な応用分野となる可能性がある。
とはいえ、ただみんなの発言を機械的にあつめ、集計すればよいわけではないだろう。
ネット集合知が有効性を発揮するための条件とは何か。
客観的な知識命題と、主観的な利害や感情との調整はどうするのか。
そんな具体的問題を考えていくと、われわれは厭でも「人間にとって、知とは何か」という、いっそう根源的な問題に突き当たる。
あとがき から抜粋
大学で教えるようになって、もう30年近く経った。
近ごろとくに気になるのは、若者達がせっかちになり、手っ取り早く唯一の正解をほしがることだ。
けれども、世の中には、正解など存在しない問題が多い。
20世紀は、専門家から天下ってくる知識が、「客観知」としてほぼ絶対的な権威を持った時代だった。
それが全て誤りだったとは思わない。
今後も専門知は、それなりに尊重されていくべきだろう。
とはいえ、21世紀には、専門知のみならず一般の人々の多様な「主観知」が、互いの相対的な位置を保って交流しつつ、ネットを介して一種のゆるやかな社会的秩序を形成していくのではないだろうか。
それが21世紀情報社会の、望ましいあり方ではないのだろうか。
なぜなら、個々の血のにじむような体験からなる、繰り返せない主観的世界こそ、生命体である人間にとって最も大切なものだからだ。
コンピュータやサイバネティクスとつきあい始めて40年あまり、これが、情報学者として私のたどりついた結論である。
中村桂子・村上陽一郎先生との対談で
初めて存じ上げたのですが
自分もネット経験20年以上なので
リンクするところも多々あり興味深い内容。
中垣先生の、IT全般、AIに対する捉え方など。
表現も独特でユニーク。
「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」や
「集合知」とは言い得て妙だなあと感じた。
それとは別に「専門家」についての
現代での認識は、池田清彦先生も論じてたことと
「クオリア」は、茂木健一郎先生の言説と
合わせて研究してみたいと思いつつ
そんな時間があるのかよ!と思ったりも
している雨模様の関東地方でございました。
2冊の井上先生達のハイレベルな”AI”への視座 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2016/07/19
- メディア: 新書
井上先生は、AIには2種あって
「汎用人工知能」「特化型人工知能」とされ
前者は
「人間のように様々な知的作業を
こなすことのできる」
後者は
「一つの特化された課題しか
こなすことができない」と仰り
今世の中の多くのAIは後者だと指摘。
前者は2030年頃に開発の目処が立つとのこと。
はじめに から抜粋
その時、私たちの仕事はなくなるのでしょうか?
経済成長は停滞するのでしょうか?
はたまた爆発的な経済成長がもたらされるのでしょうか?
私は、大学時代に計算機科学を専攻しており、人工知能に関連するゼミに属していました。
人一倍勉学を怠っておりましたが、ひととおりの知識は持ち合わせているつもりです。
どういうわけか現在は、マクロ経済学者として教鞭をとっています。
マクロ経済学というのは、一国のGDP(国内総生産)や失業率、経済成長率などがどのように決定されるのかを明らかにする経済学の分野です。
そのようなわけで本書では、人工知能にそれなりの知識のあるマクロ経済学者という立場から、人工知能が経済に対しどのような影響を及ぼすかについて論じてみたいと思います。
のっけからものすごくユニーク。
こんな先生の講義なら受けたいと思うだろう
学生時代なら、いや、中年の今でも思う。
しかしながら経済学って難しそうだし
テーマはあまり増やしたくないのだよなあ
と先日、トマ・ピケティの書を
ブックオフで立ち読みしながら
買わない方向にした時に自分に
言い聞かせた言葉を思い出したのでした。
おわりに から抜粋
現代社会で失業は、人々に対し収入が途絶えるという以上の打撃を与えます。
つまり人としての尊厳を奪うわけですが、それは私たちが自らについてその有用性にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。
みずからを社会に役に立つ道具として従属せしめているのです。
そのことを批判してバタイユはこう言っています。
「天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど、なにもしない。」
人間の価値は究極的なところ有用性にはありません。
人の役にたっているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるか、などといったこととは最終的にはどうでも良いことなのです。
要するに、有用性という価値は普遍的なものではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、やがて消え去る運命にあるのです。
AIやロボットの発達は、真に価値あるものを明らかにしてくれます。
もし、人間に究極的に価値があるとするならば、人間の生それ自体に価値があるという他ありません。
機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。
したがって、役に立つと否とにかかわらず人間には価値があるとみなすような価値観の転換が必要となってきます。
そもそも、自分が必要とされているか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値転倒の産物です。
しかも、価値転倒が起きたことすら意識できないくらいに、私たちは有用性を重んじるような世界に慣れ親しんでしまっています。
有用性を極度に重視する近代的な価値観は資本主義の発展とともに育まれてきました。
資本主義は、生産物の全てを消費せずにその一部を投資に回して、資本に増大させることによって拡大再生産を行うような経済として考えられます。
より大きな投資は後により大きな利得を生むことから、資本主義は未来のために現在を犠牲にするような心的傾向をもたらし、あらゆる物事を未来の利得のための有用な投資と見なす考えをはびこらせたわけです。
バタイユは、その著書『呪われた部分』で「普遍経済学」の構想を示しています。
それは、必要を満たすために生産するという通常の経済学とは逆に、過剰に生産された財をいかに「蕩尽」(消費)するかについて論じるような経済学です。
別の言い方をすれば、バタイユが「限定経済学」と呼んでいる通常の経済学は「希少性の経済学」であり、普遍経済学は「過剰性の経済学」です。
パリでバタイユが「普遍経済学」の着想を膨らませているのと同時期に、ドーバー海峡の向こう側では、ケインズが経済学の「一般理論」について思案していました。
それらは、「供給の過剰」と「需要の不足」をそれぞれ強調しており、裏表の関係にあります。
AIが高度に発達した未来の世界でベーシックインカムが導入されれば、労働時間の劇的な短縮が可能となります。
このような経済では、賃金によって測られる人間の有用性はさほど問題とはならなくなります。
なぜなら、賃金労働に費やす時間は、人間の活動時間のほんの一部を占めるに過ぎなくなるからです。
そして、残された余暇時間の多くは未来の利得の獲得のためではなく、現在の時間を楽しむために費やされるでしょう。
ものすごく難しい領域でございます。
しかし、言葉がわかる、というのは抽象的ですが
引っかかる、というのか。
ケインズは経済学を語る言説では
よく聞く名前だけどバタイユとは。
三島由紀夫・澁澤龍彦先生が言ってた
くらいしか自分は思い出せませんが。
お若いからか、音楽家など文化面での
照らし方なども腑に落ちるところ多く
かなり勉強になる。何のためのかは
全く不明なのですけれども。
「AIショック」に人間の身体は耐えられるのか?
から抜粋
井上▼
少なくとも、今のAIには意識も意志もないですからね。
突然意識を持つようになる、みたいなSF的な話もありますけれども。
私はちょっと違う捉え方をしていて。
人間の意志とは少し違うかもしれないんですが、例えば「アルファ碁」という囲碁に特化したAIは、囲碁の勝負に勝ちたいという、ある意味「意志」があると言えなくもない。
ただ、人間の意志と何が違うかというと、アルファ碁のようなAIは、人間が、「お前は囲碁に勝つように頑張りなさい」と目的を設定している。
だけど人間は何か一つの設定された意志を持つのではなく、生きている中で突然、ある意志を自ら持つんですよね。
AI研究者の中には、生命の根源的な意志は、結局繁殖することだと考えている人が多いんです。
そうすると例えば、生存と子孫を増やすことが究極的な目標で、あとのいろんな人間の欲望というのは、そのは生物でしかないという。
でも私は、そうではないと思っているんです。
進化論的には、結局繁殖とか生存とかに関する欲望を強く持った種が生き残ってきたんだろうなとは思いますが、繁殖に関係ない欲望もいっぱい持っているだろうというイメージを持っています。
結局、人工知能と人間の意思や欲望の違いは、人間はまず、今のAIとは違って多様な欲望を持っているという点。
それから、欲望自体が変化するということなんですよね。
それを私は勝手に「ダイナミックな報酬系」と呼んでいるんです。
人間の脳の報酬系というところで快か不快かにより分けられ、欲望が生まれ、それがダイナミックにどんどん変わっていくという。
養老▼
逆にコンピュータが欲望を持ち得たら、それは人間によって「暴走」と呼ばれることになる。
だって、さっきから言っているように、前提は人間が作っているんだからね。
井上▼
例えば囲碁のAIが、突然試合を放棄して「ボーッとしている方がいいので」と言ってボーッとし始めたとか、囲碁をやめちゃって、他に何か楽しみを見出すなんていうことはしないわけですよね。
そうなったら、反乱になる。
今のAIが、そんなに暴走する恐れがないというのは、人間から与えられた一つの意志、あるいは一つの欲望とか目的ですね、それに沿った動きしかしないからですよね。
養老▼
僕はそういう議論は常に、さっき言った話に立ち返った方がいいよねと思っている。
地球上にすでに64億もあるものなんて、今さら作ってどうするのよと(笑)。
乱暴なことをいうようだけど、なぜそこまでやる必要があるの?という疑問が、どうしても起こってきますね。
特にAIに関する全体的な議論を見ていると、予測することもできるし、論理的に考えるのは面白いからいいんですけど、余波が大きいようなものを社会システムにいきなり持ち込むというのは、本当にそれで大丈夫なんですかと問うところからはじめないと。
ちょうど遺伝子をいじるかどうかという話にも似ているんですよね。
AIが社会にショックを与えるとしたら、逆に人間は、それに耐えられるようにできているのか、と問わないと。
さっき言った『サピエンス異変』の話だよ。
人間が作っちゃった世界に自分の身体が適応してませんよという。
僕も腰痛です。
虫の観察やって、いつもパソコン前に座っているから。
リスクを特定できないものは
よく議論を尽くさないと、とも解釈でき
それは”原発”にも通底しそうだなあと。
単に、職を奪われる、という捉え方は
一般庶民の悲しい性みたいなもので。
奪う、奪われない、ということでなしに
なぜ共存しようという発想にならず
一辺倒に傾くのだろうかなんて
自分なぞは思ってしまうのだけど。
それはお気楽な言説ってことなのだろうか。
話は本にもどり高次レベルなお二人の話は
これまた膝打つ書籍でございまして
何回か読みこみたいと感じるのだけど
そんな時間あったら山積してる未読本を
読めや、または、仕事を精進しなさい
とどこかから聞こえてくる
早朝5時起きのため、早く寝たいと思う
身体管理という視座には勝てないのでした。
中村先生たちの訳・監修本から”DNAの警鐘”を見る [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
2017年7月 中村桂子・松原謙一
1983年。
”Molecular Biology of the Cell”と表紙に書かれた教科書の登場に驚き、その内容の見事さに感銘を受けた時のことは今も忘れない。
DNAを遺伝子として捉えることで生命現象を解明できると考えていた分子生物学者が、生きることを支えるのは細胞であることに気づいたのである。
もちろんそれは、”Molecular Biology of the Gene”が進展した結果であり、学問は地道な積み重ねの上にしか飛躍はない。
以来30年以上、「細胞の分子生物学」の進展にはめざましいものがあり、本版のまえがきには、第五版以来これまでに500万を超える論文が発表されたとある。
これを読みこなし、この分野の全体像を作ることがいかに難しいか。
研究の進展は理解を深めると同時に、問いをたくさん生み、時に謎を深めてもいる。
新しい知見を盛り込んだ大部の著書の翻訳はとても大変な作業であり、新版を前に迷ったが、内容の充実ぶりに押されて取り組んだというのが正直な気持ちである。
各版を追うと、その時代の研究の動きが見えて興味深い。
当初は細胞といっても植物と神経には独自なところがあると捉え、これらを別に扱っていた。
しかし、研究が進むにつれて、基本は同じという考え方にまとめられた。
ある時は、近年関心が薄れてきていた感染症の問題が浮かび上がり、そこでそれまであまり眼を向けられていなかった先天性免疫が一項目として取り上げられるようになったこともある。
そして第6版である。
ゲノムをもつ細胞に関する生物学がみごとに整理されたといって良い。
特に近年、新しい研究方法の開発・改善や細胞の可視化によって研究が急速に展開しており、具体的な研究の進展が細胞の理解を進めたことがわかる。
教科書としてもこれだけ版を重ねる必要があったわけだが、30年を越える研究によって細胞の分子生物学の基本はできたといってもよいのではないだろうか。
もちろん、まだわからないことはたくさんある。
各章の最後にある「まだわかっていないこと」を見ると、ここにこそ面白いテーマがあることがわかる。
ここに読者がこの問いに答えようという気持ちになってほしいという願いが込められている。
さらに大きなテーマもある。
「まえがき」にあるように、今や私たちの眼の前には、ゲノム解析をはじめとしてタンパク質相互作用、遺伝子発現などについてのデータの山がある。
しかもデータベースには日々更なるデータが入ってくる状況である。
ビッグデータの時代である。
そしてこれは「細胞とは何か」を知るための宝の山と言ってよい。
しかしそれをどう生かすか。
残念ながらそれは見えてこない。
「新しい細胞の生物学」とよんでもよいかもしれない学問を構築しなければ、細胞はその本当の姿を見せてはくれないだろうという状況になっている。
これこそ本書で学ぶ若い人たちの仕事である。
本書が新しい生物学を生み出す研究に生かされることを心から願っている。
PART 1 細胞とは
細部とゲノムから抜粋
地球上の細胞が共有する特徴
ゲノムの多様性と生物の系統樹
真核生物の遺伝情報
地球は生物、つまり周囲から素材を取り入れて自己を複製する複雑な組織を持った不思議な化学工場で満ちている。
生物はとてつもなく多様に見える。
トラと海藻、あるいは細菌と木ほど違うものがほかにあるだろうか。
ところがわれわれの祖先は、細胞もDNAもまったく知らないまま、そこに何か共通するものがあることを感じ、その”何か”を”生命”と呼び、それに驚嘆し、定義しようとし、それが何ものであり、どう働くのかを、物質との関連で説明しようとしてきた。
前世紀でなされた多くの発見で、生命の本質にまつわる神秘は取り除かれ、今では、生物はすべて細部からなることがわかっている。
細部は膜で囲まれた小さな単位で、化学物質の濃厚な水溶液で満ちており、成長しニ分裂して自分の複製を作るという優れた能力を持つ。
細胞は生命の基本単位なので、生命とは何でありどう働くかという問いへの答えは細胞生物学(Cell biology)に求めることになる。
細胞とその進化をより深く理解することにより、地球上の生命の神秘的起源、驚くべき多様性、広範な生息場所といった、壮大で歴史的な問題に取り組むことができる。
かつて、細胞生物学の始祖の1人、E.B.Wilsonが強調した通り、”生物学のあらゆる問題の鍵は細胞に求めなければならない。なぜなら、すべての生物は一個の細胞である(あるいは一個の細胞であった)からである”。
外見の多様性とは裏腹に、生物の内部は基本的によく似ている。
生物学は、生物個々を特徴づける驚くべき多様性と基本的機構にみられる驚くべき恒常性という二つの主題を対照させる作業といえる。
この章ではまず、地球上の生物に共通の特徴を考え、次に、細部の多様性を概観する。
そして最後に、あらゆる生き物の仕様を記述する分子の暗号(コード)が共通であるおかげで、仕様を読み、計測し、解読することによって微生物から巨大な生き物まで、あらゆる生命体を統一的に理解できるようになったことを見ていく。
ここまで分解され詳細を解説・分析している
細胞の本は、おそらくないのでしょう。
”まだわかっていないこと”というのも
中村先生ご指摘されているけれども
今後生物学を志す若い人たちへの指針に
なろうというものではないかと推察できる。
それはそれとして、自分もいろんなDNA本を
読んでみたものの門外漢の自分がここまで
学術的な書を読むことの必然性のなさに
驚きを隠す事を禁じ得ないのでございまして。
それはともかく、本日ブックオフに
行ったらこの書籍の第五版だったか、があり
その表4の写真が、ビートルズの
”A Hard days night”のデザインだったのに対し
この第六版は、”Please Please Me”だったのは
ちょっと気になった次第で
チームとかクリエイティブとかという意味での
DNAの継承を表現されているのかなと
思ったことはどうでもよい言いたいだけで
ございましたことを謹んでお知らせいたします。